向かいに座っている寺尾が、『薔薇の棺』というタイトルの文庫本をローテーブルの上に置いた。
「ば、ばらの……」
「ひつぎ。要するに、棺桶のことね」
 タイトルが読めなかったのはともかく、寺尾が俺を事務所に呼び出してまでこの本を紹介し始めた理由が分からなかった。面白いから読め、という雰囲気でもなさそうだ。
「この小説がドラマ化されることになってね、主人公を演じるのはアンタも知ってる、シトラスのアヤよ」
 シトラスとは今人気の7人組の女性アイドルグループで、アヤはそこの1番人気のセンターだ。しかしアヤには普通のアイドルとは違う、驚きの経歴があるのだ。
 歌やダンスの実力は圧倒的だが、演技までするという話は聞いたことがなかった。主役に選ばれるくらいだから、俺が知らないだけで実は経験があるのかもしれない。
「そしてその主人公を支える若い執事の役が、みいちゃん。アンタがやるのよ」
「え、は……っ、俺!?」
 何かの間違いじゃないのか。こういう仕事は全て、俳優志望の伊織にまわってくるものだと思っていた。前はゲイ男優をやっていたとはいえ、こういうドラマの演技とは全く違うものだ。
「そういうわけだからこの原作本、読んでおいてよね」
 そう言われても俺は普段こういう本は読まないし、それに結構な厚さだ。読み終わるまでに何日かかるか。それでも間違いなく俺にまわってきた仕事ならやるしかないし、話の流れを掴むためには最後まで読むしかない。


***


 事務所での用事を終えた後、外で俺を待っていた伊織と近くの喫茶店に入った。お気に入りのアイスレモンティーを飲んで機嫌の良さそうな伊織に、例のドラマについての話をした途端に空気が変わった。
 グラスの底に沈められた輪切りのレモンが、伊織が握ったストローでざくざくと無残に潰されている。
「へえー、水無瀬がドラマにねえ。ふーん」
 予想通り俺に向けられた視線がものすごく痛かった。個人的に演技指導のレッスンを受けているとはいえ、まだ伊織はしっかりと演技ができる状態ではない。基礎の基礎から教えなくてはならないほど、俳優としては致命的なレベルだと聞いている。
 そんな状況の中で、俳優志望でもない俺にドラマの仕事が来たものだから、伊織は面白くないようだ。もしこいつに今回の仕事を譲ると言っても、お下がりなんて冗談じゃないよ! なんて言われてこじれるに決まっている。とにかく面倒くさい性格だ。
 原作小説のページを半分ほど軽くめくっていて気になったのが、俺が演じる若い執事が全く出て来ない。後半から出てくるのかもしれないが、ドラマの準主役にしては遅すぎる。主人公をあれこれ気にかけて、ずっと心の支えになっている庭師のおっさんなら、最初から出ているのに。
 それを伊織に話してみると、原作にあるキャラの立場や性別を大幅に変えて実写化するのは、ここ数年ではよくあることらしい。強い事務所が推している俳優を使うためだとか、とにかく大人の事情というやつだ。
「登場人物のイメージに合わないキャストで原作を汚すくらいなら、実写化なんかやめてくれって意見が多いよ」
 俺に対するプレッシャーを混ぜ込みながら、伊織はにやりと笑った。
 寺尾は今回のドラマについて、『深夜枠で放送する、ゆるいアイドルドラマ』だと説明していたが、原作のタイトルからしてゆるいどころか重苦しい。


***


 スタッフと出演者の顔合わせが終わり、テレビ局の会議室のような場所で台本の読み合わせが行われた。ここではまだ、動きは付けずに出演者は椅子に座ったまま台詞のみで進められていく。
 机を挟んで俺の向かい側に座っているのが、主人公の佐和子を演じるアヤだ。
 「薔薇の棺」の実写化が発表された時、あるスポーツ新聞の記事には「話題のゲイとニューハーフが、深夜ドラマで直接対決」という下世話な煽り文がついていた。ゲイは言うまでもなく俺だが、並べて書かれているニューハーフのほうはアヤのことだ。
 アヤの本名は望月貴也といい、本当の性別は男だ。テレビ番組の企画で3ヶ月だけシトラスのメンバー、しかも女装してセンターになった。そして活動終了後、シトラスでの日々がどうしても忘れられずに性転換の手術を受け、戸籍以外は全て女になってオーディションを受けたのだ。外見だけではなく、立ち振る舞いや話し方も完全に女だ。今後の男としての人生を捨て、アイドルになった。
 その覚悟、勇気、そして執念。トップアイドルを目指す俺の前に、今こうして分厚く高い壁となって現れた。このドラマで共演するアヤに食われて、存在をかき消されないように全力でやるしかない。
「あなたが薔薇を育ててくれたこの温室で、身も心も全てあなたに捧げたい。本気で言っているのよ」
「お嬢様、使用人の私にそのようなことを言ってはいけません」
 アヤに続いて俺が台詞を言うと、ディレクターの男が俺の名前を呼んだ。
「水無瀬くん、君が演じる執事は佐和子のことを本心では愛しく思っているんだけど、立場上それを口に出せない。苦しい想いを抱えているんだよ。君の台詞からはそれが伝わってこない。もっと感情を込めて」
「……はい」
 難しい注文だった。俺は台本にあるさっきの台詞部分に、ディレクターからの指摘をざっとメモする。昔ならともかく、今の日本で身分違いの恋なんて経験できるものじゃない。どうすればこの執事になりきれるのか、答えは見えてこなかった。


***


「身分違いの恋、ね」
 一緒にベンチに腰掛けている矢野が、台本の俺の台詞が書かれているページを眺めている。夜の公園で台詞の練習をしていた時、仕事帰りの矢野が俺を見つけて声をかけてきたのだ。
「どうすりゃいいのか全然分かんねーんだよ。読み合わせで何度もやり直しさせられるし、このままじゃ俺……」
「まるで俺達みたいじゃねえか。平凡なサラリーマンとアイドル」
「確かに……って、え、恋?」
「過去形だけどな。今だから言うが、俺は本気だった。初めて会った時からずっとだ」
 台本を閉じた矢野が、俺をじっと見つめる。何だかとんでもないことを言われて俺は頭が真っ白になった。俺と矢野は最初からセフレだったけど、ゲイがばれたら解雇になる俺を気遣った矢野が別れを切り出したのだ。
 ずっと、矢野とはセックスだけの繋がりだと思っていた。もちろん矢野もそのつもりで俺と付き合っていたはずで、好きとか愛してるとか1度も言われたことはなかった。
「俺は生まれつきこんなツラだから、あのオフ会でもみんな俺を怖がって避けていた。そんな中でお前だけが声をかけてきてくれたよな。子犬みてえに懐いてきて、俺を抱きたいなんて言った奴はお前が初めてだった」
「それは、あんたが俺の好みのタイプだったから……」
「普通の学生かと思えばゲイ男優で、その割には言っちゃ悪いがあまり慣れてねえみたいで、そういうところが可愛いと思った。いつかは告白するつもりだったが、お前はスカウトされてアイドルになった。それから例の掟の件を聞いて、俺は身を引く決意をしたんだ」
 セフレとして一緒に過ごす間、俺は矢野の本心に気付かなかった。いや、矢野は言葉にしないままずっと隠していたのだ。そして俺がアイドルとして前に進んで行けるように、セフレの関係すらも断ち切った。
 恋人として矢野に激しく愛される、そんな未来もあった。しかし今の俺には、ずっと大事にしていくと決めた他の奴がいる。ドラマ出演が決まってからは気まずくなってしまったが、気持ちは変わっていない。
「安心しろよ、俺はもうお前を抱かねえ。この前のあいつと付き合ってるんだろ、人のものには手を出さねえ主義なんだ」
「矢野さんって、結構真面目だよな」
「ん? 普通だろ」
 矢野は苦笑しながら、俺に台本を手渡してきた。その時、俺はディレクターからの指摘を思い出す。本心では愛しく思っている。立場上それを口に出せない。苦しい想いを抱えている……。
 俺の中でもやもやとしていた何かに光が差し込んだ。台本を読んだ矢野が遠回しにアドバイスをくれたのか、それともただの偶然か。どちらにしても俺は、今ならあの執事の気持ちを追える気がした。


***


 アパートに着くと、ドアの前に伊織がしゃがみ込んでいた。春になったとはいえまだ夜は寒いのに、どのくらい待っていたのか。公園から帰ってきた俺を見上げて睨んでくる。
「鍵が閉まってて、入れなかった」
「出掛けてたんだ、閉めてるに決まってんだろ」
 ジーンズのポケットから鍵を取り出す俺の前で、伊織が立ち上がって視線を向けてくる。
「この前はその、僕が悪かったよ。羨ましかったんだ……ドラマに出れる水無瀬が」
「思っていたより大変なんだな、ドラマって。難しいよ」
「だよね! でもやりがいはあるんだよ、台本の読み合わせが終わったら立ち稽古ってのがあって……」
 ドアを開けた俺の後ろから、伊織が楽しそうに語り続ける。少し離れていた分を埋めたくて、俺はいつも通り自然に伊織を受け入れた。




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