僕も水無瀬もまだ生まれていない数十年前、芸能界の片隅でひとりの少年がアイドルとしてデビューした。 容姿も歌もダンスも完璧すぎるほどの才能に恵まれながらも、周囲の大人達に利用され裏切られ、やがて表舞台からひっそりと姿を消してしまった。彼自身の作詞作曲でリリースされた1枚だけのCDは売れず、世間からも業界からも存在ごと忘れられた。 16歳だった彼はあまりにも純粋すぎて、芸能界という地獄のどす黒い毒に耐えられなかったのだ。 バラエティー番組の収録が早めに終わって劇場に着いた僕は、ロビーのモニターを見て違和感を覚えた。今入ってる5曲目はいつもなら水無瀬がセンターをやっているけど、今日は篠原がそこのポジションに入るはずだ。なのに今センターの位置で踊っているのは、何故か水無瀬と藤村だった。意味不明のダブルセンターのすぐ後ろでは肝心の篠原が、動きもせずにマイクを持って歌っている。 「篠原くん、サビ以外の振り付け飛んじゃったみたいよ」 いつの間にか僕の隣に立っていた寺尾さんが、モニター画面を見上げながらそう言った。 「じゃあ、それでセンター下ろされてこうなったんですか」 「下ろされてはいないわ、見て」 ちょうどサビに入った途端、さっきまで水無瀬と藤村の後ろにいた篠原が前に出てきて踊り始めた。 「振り付けを忘れたセンターなんて、後ろの誰かと交代するか完全に外されるかのどちらかしかないわ。それが普通の考え……でもこの方法なら最初はみいちゃんとフジくんがカバーして、サビの部分では篠原くんを前に出すことで本当のセンターとして強調できる」 今日は篠原のお披露目公演でもあるので、振り付けを多少アレンジして篠原を目立たせてもおかしくはない。多少強引でも、観客に演出のひとつとして納得してもらえる。 僕が驚いたのは、藍川さんが卒業してキャプテンの真鍋もいない今日の出演メンバーの中で、寺尾さんの助言もなくこのフォーメーションを考えた奴がいるってこと。 「もし篠原くんが他のメンバーとポジを交代させられていたら、自分が悪いとはいえ罪悪感やら何やらで押しつぶされてしまうでしょうね。そうなったらあんなに生き生きとした顔では歌えない……篠原くんのセンターを維持したまま観客を盛り上げて、出演メンバーの動揺まで消した。誰なのかは知らないけど、その人の気質がよく出た作戦だと思うわ」 目を輝かせて興奮している寺尾さんは、本当は誰が考えたのか分かっている様子だ。僕も話を聞いているうちに、曖昧だった予感が確信に変わった。大きなミスを犯した新人を切り捨てずに引っ張り上げる、無駄に情の厚い奴なんかあの中でひとりしかいない。 そう思っていた僕はモニター画面を見ているうちに、水無瀬の動きがごくたまに不安定になっていることに気付いた。今は篠原の陰になっているから分かりにくいけど、右足の踏み込み方がおかしい。 「みいちゃん、開演前に篠原くんを庇って階段から落ちたのよ。捻挫してるくせに、どうしても出るって言ってね」 公演が終わるまで水無瀬は、ステージの上で足の痛みを顔に出すことはなかった。 「お世話しに来てあげたよ、おじいちゃん」 「誰がおじいちゃんだよ」 玄関のドアを開けた水無瀬は、僕に鋭い突っ込みを入れながらも中に入れてくれた。 昨日の公演が終わった後、夜間でも診察をしている病院に車で連れて行ってもらった水無瀬は医者に散々怒られたらしい。 捻挫した人間が仕事とはいえ、無理をして2時間近くステージで踊ったのだ。色々事情はあるものの責任感が強いのか本気でお人好しなのか。それでも水無瀬は、公演終了後の楽屋で他の出演メンバーに囲まれながら満足そうに笑っていた。 そして楽屋を出る時、事務所が手配した車まで水無瀬に肩を貸して歩いていたのは篠原だった。もしかして和解したのかな。いや、あれだけ水無瀬に世話になっておいてまだ憎んでいたら、もはや人間としてどうかという感じだ。 ベッドに腰掛けている水無瀬の右足はサポーターで固定されていて、公演はしばらく休むことになった。ドラマの撮影のほうは、幸いあまり激しく動かない役なので最後まで続けるらしい。それでもかなり無理をしているんだけど。 「材料買ってきたから、僕が夕飯作るよ。高齢化社会とはいえ介護は大変だなあ」 「大変とか言う割には楽しそうだな」 「そう?」 手を洗った後、シンプルなエプロンを借りて夕飯の支度を始める。新婚みたいでわくわくしてしまう。そんなに凝った難しいものは作れないけど、味にはかなり自信がある。 家に帰ってもご飯作ってくれる人がいない僕は、泊まりで仕事に行ってる時以外は大体自炊してるんだから。面倒くさい時だけはコンビニで何か買って帰るという感じだ。 「……例えどんな過去があっても、どんなに性格の歪んだ奴でも、困っていたら放っておけないお人好し」 ベッドのほうから水無瀬が、身に覚えのある言葉を呟いた。僕は思わず手を止めて振り返ると、水無瀬がこちらをじっと見ていた。 「俺と藍川さんって、似ているらしいぜ。篠原が言ってたんだよ」 「へえ、そうなんだ」 「篠原は、お前から聞いたみたいだけどな」 あのお喋り野郎、ばらしやがって。でもあれを水無瀬に直接言ったってことは、篠原も水無瀬が藍川さんに通じるものがあると認めたんだよな。この前の様子じゃ絶対に認めないと思っていたのに。 「僕はね、研究生のキャプテンは水無瀬にやってほしいんだ。少なくとも今の奴よりはふさわしい」 「俺が? さすがに無理だって。キャリアも浅いし」 「大事なのはキャリアじゃなくて資質だよ。いざという時にベストな判断ができる、大勢をまとめられる、それから……」 フライパンで野菜を炒めながら話していると、背後に気配を感じた。水無瀬が僕の腰に両腕をまわして密着してくる。心臓が落ち着かなくなって、ふわっと身体が熱くなった。 「ゲイ男優の過去で騒ぎ起こした奴がキャプテンなんかやったら、また週刊誌に書かれてみんなに迷惑かけるだろ」 「加入前の話で騒ぐほうがおかしいんだよ……僕は水無瀬を差別したことなんか」 「お前がそう思ってくれてるだけで、俺は嬉しいよ」 後ろから首筋を吸われて、完全に流される前に僕はガスコンロの火を止めた。 勇気を出して、今夜はここに泊まって行きたいって言ってみようかな。水無瀬の世話もできるし……って、僕が誰かに対してこんなに尽くすのって初めてかもしれない。 「俺、来月誕生日なんだ」 「20歳になるんだっけ、おじいちゃん」 「あのな、俺が年取るってことはお前も同じように老けるんだよ」 「僕の誕生日はまだずっと先だからさ、残念でした」 笑いながら水無瀬のほうに顔を向けると、すぐに唇が重なった。 水無瀬の足が治って復帰した数日後、公演の最後に水無瀬の誕生日イベントが行われた。これは前から劇場公演で行われているもので、スタッフや研究生達が用意したケーキや演出に加えて、本人には秘密のサプライズがある。 観客や出演メンバーが見守る中、水無瀬が運ばれてきたケーキのろうそくを吹き消す。本当の誕生日は来週だけど、当日はドラマ撮影が入っているので少し早めに今日の公演で行われることになったのだ。 大きな拍手が落ち着いた頃、僕がステージの袖に向かって合図を送るとひとりの男が登場した。それを見た観客からは歓声が起こり、そして出演メンバーとしてステージにいた篠原が口を半開きにして呆然とする。 「誕生日おめでとう、水無瀬」 スーツ姿の藍川さんが、ステージ中央の水無瀬に花束を渡した。これが今回用意されていたサプライズだ。さすがに水無瀬も予想外だったらしく、かなり驚いていた。 イベント終了後、楽屋から少し離れた廊下で藍川さんと篠原が2人きりで何かを話していた。出演する公演には必ず来ていた熱心な篠原を、僕だけじゃなく藍川さんも覚えていたらしい。 差し出された藍川さんの手を、両手で包むようにして握る篠原は涙を流していた。水無瀬だけじゃなく、篠原にとっても大きなサプライズだったようだ。 「伊織にフジくん、それに篠原くん……みんな揃って、アタシに何の用かしら?」 ノートパソコンや膨大な書類やファイルが、きっちり整理されて置いてある大きな机。その向こうには寺尾さんがいて、僕達3人を見据えている。 前日に声をかけておいた藤村や篠原とレッスンが始まる前に待ち合わせて、この事務所に足を踏み入れた。どうしても僕達の考えを、今の気持ちを伝えなきゃいけない。事態はこのまま黙っているわけにはいかないところまで来ているのだ。 「寺尾さん、僕達がお話したいのは研究生のキャプテンについてです」 「今のキャプテンは真鍋くんね、何か異論でも?」 「正直、真鍋がキャプテンに向いているとは思えません」 僕がそう言うと、寺尾さんは目を鋭くして僕達を睨んだ。この反応、寺尾さんはあの真鍋が本当にキャプテンに向いていると思って決めたのだろうか、だから反対する僕達をこうして威圧するのか。 「後ろにいるフジくんと篠原くんも、伊織と同じ意見ってことね。アンタ達、いい度胸してるわ」 寺尾さんの唸るような低い声に、僕達の間に流れる空気が痛いほど張り詰める。 この人が放つ独特の雰囲気と存在感は、延々と泥の中を這い続けてきた末に成功を掴んだ、波乱に満ちた人生そのものを感じさせた。 |