見舞いに来た伊織から手渡された紙袋の中には、懐かしいものが入っていた。俺が眠っている間に矢野が見舞いの品として持ってきてくれたらしい。それを見た瞬間に、過去の思い出が頭によみがえった。
 矢野とセフレの関係だった頃、デパートの地下を一緒に歩いている時に見つけた高級果物店。甘い物はそれほど食べない俺だったが、そこで売られていたフルーツゼリーが気になった。ゼリーの透明な容器の中には、大きくカットされた梨や桃が惜しげもなく詰まっている。
 それらが並べられているショーケースが、まるで宝石箱のように見えた。
『食いたいのか』
 思わず店の前で足を止めた俺に気付いた矢野が、そっと声をかけてきた。
『いや、でもゼリー1個に500円は……美味そうだけどなあ』
『買ってやるよ』
『えっ! そんな……何か俺がねだったみたいで悪いし』
 そう言いながらも本当は食べてみたい俺の本心を読まれたのか、矢野はその店で同じ味のゼリーを2つ買って片方をこちらに差し出した。自分も食べるという形にして、俺に気を遣わせないようにしたのだ。
 デパートのベンチに腰掛けて矢野と食べたフルーツゼリーは、瑞々しくて感動するほど美味かった。手に持った時の重さからして、スーパーで見かける普通のゼリーとは全然違った。
 食べている最中に自然に顔が緩んでいた俺を、矢野が穏やかな表情で見つめていて、照れくさかった。
「……ちょっと水無瀬! 僕の前で浸らないでくれる!?」
 その声に我に返ると、ベッドの横に居る伊織が俺を睨みつけていた。
「え、いや別に浸ってなんかいねえよ」
「どーせそのゼリー、矢野さんとの思い出か何かなんじゃないの! わざわざ持ってきた僕がバカみたいだよ!」
 さすがにさっきのは申し訳なかったと思い、唇を尖らせて拗ねる伊織に俺は必死で謝った。


***


 リハビリを終えてようやくまともに動けるようになった俺の復帰後の初仕事は、研究生の原点とも言える劇場公演だった。俺の事故の後も公演は行われていて、研究生全員で協力して盛り上げていたらしい。
 約2ヶ月ぶりに公演のステージに立った俺を、集まったお客さん達は声援と共に温かく迎えてくれた。この日は休演していた伊織の代わりに佐倉がセンターを務め、MC中の篠原は前と変わらずに、俺に対してはやたらと突っ込みがきつい。
 2ヶ月も寝ていた水無瀬先輩はしばらく休み無しで働いてもらいます、と篠原が真顔で言うと客席やステージが笑いに包まれた。
 公演が終わった後でトイレで手を洗っていると、廊下から今日来ていた女性客らしき声が聞こえてきた。
「やっぱり、あの噂本当なのかな。水無瀬くんの……」
「だとしたらマジで有り得ないんだけど、いくら仲良いからって年下の伊織くんがあいつの入院費出したなんてさあ」
 俺はそれを聞いて激しく混乱した。意識が戻った俺は、これまでの入院費は全部寺尾が立て替えてくれたと聞いている。これからまたアイドルとして頑張って、少しずつ返してくれれば良いと確かに言っていた。
 盗み聞きには抵抗があったものの、廊下からは死角になるトイレの壁にもたれながら話の続きを待つ。
「伊織くんは可愛いし歌もダンスも凄いし、脱がなくたって充分やっていけたよ。前に出た文冬では伊織くんからあいつへの恩返しがどうのこうの書いてあったけどさ、嘘に決まってる。伊織くんは身売りさせられたんだよ。私、伊織くん推しだけどあの写真集は買ってない。あんな奴のために強引に脱がされたかと思うと、胸糞悪いっていうか」
 伊織が俺のために身売り? 強引に脱がされた?
 震える手で俺はポケットからスマホを取り出し、話に出てきた週刊文冬をネットで検索した。すると出てきたのは『芸能裏ニュースまとめブログ』で、そこに文冬の記事が引用されている。
 そこに大きな文字で書かれている「意識戻らぬキャプテンのため…鉄壁アイドル伊織の『肌見せ解禁』真相」という見出しを目にした瞬間に俺は、絶望に突き落とされたような感覚に陥った。
 あの写真集を笑顔で見せてくれた伊織は、実は傷付いていたのか。俺の入院費を稼ぐために今までずっと避けてきた脱ぎ仕事をして、俺はその間何も知らずに眠り続けていた。
「伊織くんが身体張って稼いだお金で助かった命でステージに立って、へらへら笑っちゃってさ。ご立派なキャプテンだよね〜!」
 文冬の引用記事が表示されたままのスマホを握り締めながら、うずくまった俺は立ち上がることすらできなかった。


***


 仕事帰りの伊織と待ち合わせた場所は、街の中心から外れた場所にあるカラオケボックスだった。平日夜のせいかどの部屋も空いていて、受付の後で個室に向かう途中も他の客とすれ違うことはなかった。
「急に呼び出して悪いな、疲れてるだろ」
「うん、でも水無瀬の顔見たら元気出たよ」
 俺は伊織と並んでソファに座る。ここに来た目的は周りを気にせず話すためで、歌う気はなかったのでマイクやリモコンは元の位置に置かれたままだ。
 隣の部屋からの歌声が壁越しに聞こえてくる中、俺は決意して口を開いた。
「前に見せてくれたお前の写真集ってさ、俺の事故と何か関係あるのか?」
「えっ……?」
「ネットやってたら偶然見たんだよ。俺の入院費を稼ぐために、お前がセミヌードの写真集出したっていう雑誌の記事を」
 途端に伊織は顔色を変え、明らかに青ざめていた。それを見て俺は、劇場で聞いた噂話や例の記事は事実だったと確信した。伊織は動揺するとそれを隠せない性格だと、もう分かっている。
「違う! あれはこれから仕事の幅を広げるために、僕が納得して引き受けた仕事だ! いつまでも可愛い可愛いって言われてばかりじゃ、ドラマや映画で貰える役も限られてくるんだよ! それとも水無瀬は僕の言葉より、雑誌の胡散臭い記事を信じるの!?」
 伊織は怒りを露わにしながら叫び、俺の腕を強く掴んだ。その手が震えているのを見て、俺は胸が苦しくなる。
 いくら泥沼な芸能界でも、火のないところから煙は立たない。伊織があの写真集を引き受けた理由のうち、100パーセントではなくてもいくらかは俺のことが関係しているのは間違いない。
 しかも事故のすぐ後に写真集の発売が決まれば、怪しむ人間は絶対に出てくる。特に芸能界のネタを日頃から探っている、週刊誌の記者あたりなら。
「僕のこと信じてよ、水無瀬……」
 俺の腕にしがみついて呟く伊織を抱き締める。あの写真集を見せている時の伊織は誇らしげで、強引にやらされたようには見えなかった。そして一部のファンが離れることも覚悟の上で、セミヌードを撮ったのだ。
 週刊誌や噂話が写真集発売の経緯についてどう語っていても、俺はこれ以上伊織を追求することはできない。
「もう、何も聞かねえから。ごめんな」
 そう言うと伊織は腕の中で小さく頷いて、背中に両腕をまわしてきた。守っていこうとした伊織に、俺は逆に守られてしまった。
 俺は事故から2ヶ月間、伊織だけではなく寺尾や他の研究生、そして俺を応援してくれる人達にたくさんの心配と迷惑をかけた。
 眠っていた時間の空白を、俺はこれから埋めていく。ゆっくりと、時間をかけてでも。
「……ねえ、せっかくカラオケ来たんだから何か歌わない? 時間もまだ余ってるよ」
 顔を上げた伊織の言うとおり、部屋を出るまであと1時間以上も残っている。そういえば伊織とカラオケに来たのはこれが初めてだと気付く。2人で会う時は大体俺のアパートで、一緒に堂々と外出できない反動もあってセックスばかりしていた。
「水無瀬とデュエットしてみたいなあ」
「俺、あんまり最近の曲知らねえぞ」
「じゃあねー、水無瀬が絶対に知ってる曲!」
 リモコンを専用のタッチペンで素早く操作して、伊織は何かの曲を入れた。するとすぐに大きな画面に映った歌詞付きのPVは、俺達研究生のCDデビュー曲だった。


***


 翌日、研究生全員が揃ったレッスンスタジオでダンスの先生からすごい発表を聞いた。
「寺尾プロダクション研究生が、今年の日本ディスク大賞の最優秀新人賞の候補に選ばれました」
 一瞬の沈黙の後、俺達はそれぞれ驚きと喜びで大騒ぎになった。
 正式名称「輝け!日本ディスク大賞」は、50年以上前から年末に放送されている歴史ある音楽番組だ。
 俺達が候補として選ばれた「最優秀新人賞」の他にもいくつかの賞があり、中でも番組名にもなっている「日本ディスク大賞」は、その年で最も話題性や楽曲・歌唱の質に優れた曲に贈られる1番大きな賞だ。去年の大賞に選ばれたのは、シトラスの曲だった。
 シトラスは今年も大賞候補に入っているらしいので、5大ドームツアーなどの活躍ぶりからして2年連続受賞の可能性もある。
 更にダンスの先生は、ディスク大賞では俺達研究生全員が出演して、デビューCDのタイトル曲を歌うことになると言った。
 ミュージックパラダイスの時とは違い、これは「出演するための条件」ではなくすでに決定しているもので、カップリング曲メンバーの佐倉達8人もタイトル曲の振り付けを覚えることになった。
 ノミネートされた賞の大きさは違うものの、アイドル界のトップグループと同じステージに立つ日がついに来た。秋まではCDデビューすらしていない、音楽番組にも出たことのなかった俺達が。
 普段は感情を表に出さない篠原も、業界慣れしているはずの伊織もさすがに驚いていた。前に寺尾が俺に言った通り、シトラスと肩を並べるための大きな1歩をこれで踏み出せたのだ。




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