「カツアンドヤス様」という張り紙のある楽屋前で、俺は深呼吸をしてはドアノブに手をかけてまた離す、という流れを何度も繰り返していた。本当は1秒でも早くこのドアを開けて、中にいる2人に挨拶をしなければいけない。
 カツアンドヤスは、結成15年目の中堅お笑いコンビだ。暴走気味なボケ担当のカツと、鋭いツッコミ担当のヤスという2人組で構成されていて、コンビ名を略してカツヤスと呼ばれている。レギュラー番組は週に10本、その中の半数が冠番組という売れっ子だ。
 どうして俺がこの状況になっているかというと、カツアンドヤスの冠番組のひとつであるバラエティー「カツヤスSHOW!」のゲストとして、俺がひとりで出演することになったからだ。前に俺が急に女装をする羽目になったトーク番組の時は伊織もいたので、こういう挨拶周りは伊織と一緒だったが今回は当然、俺1人だ。
 専用劇場ではいつも自己中に振る舞っていたあの伊織が、外仕事では他の出演者に対して「今日はよろしくお願いします」と、深々と頭を下げていた。芸能人としては当たり前のことでも、ああいう伊織を見たのは初めてだったので驚きだった。事務所の力も含まれているだろうが、伊織の個人仕事が途切れない理由が分かった気がした。
 それよりも今は共演するカツアンドヤスへの挨拶だ。早くしないとリハーサルが始まってしまうので俺は覚悟を決めてドアをノックした。どうぞ〜、というのんびりした声がした後で俺はいよいよ楽屋のドアを開けた。
「失礼します、今日ご一緒させていただく水無瀬です……」
 楽屋の椅子に座って煙草を吸っていたカツとヤスは挨拶をする俺を見て、ほぼ同時に「あっ」という声を上げた。やっぱり俺がゲイだと知って引いているのかと思ったが、その予想は外れだった。
 吸いかけの煙草を灰皿に押し付けたカツが、表情を緩ませて俺に声をかけてきた。
「水無瀬くんって俺達と同じ、北海道出身なんだって?」
「え、あっ、はい」
 もちろん俺も2人が同郷だと知っている。更にヤスとは北海道のA市出身という部分まで共通していた。
 それから少しの間、挨拶に来ただけのはずがいつの間にか地元ネタで盛り上がってしまい、気が付くとリハーサルの時間が迫っていた。スタッフが大勢参加している打ち合わせの時は気付かなかったが、思ったより気さくに俺に接してくれたので、張り詰めていたものが緩んでリラックスできた。


***


『この前のみいちゃん、全然面白くなかったわよ』
 女装して伊織と共演した番組のオンエアを観たらしい寺尾が、事務所で眉根を寄せながら俺にそう言った。自分的にはかなり身体を張った気になっていた俺は、ばっさりとダメ出しを食らって衝撃を受けた。
『伊織が気を利かせたから上手く行ったけどね、あんなに引きつった顔してちゃダメじゃないの。ゴールデン枠の全国ネットで顔を売れるチャンスなんだから、しっかり爪痕残すべきだったのよ』
『その、急に女装なんて言われてびっくりして……すみません』
『みいちゃんはどうして劇場公演では上手く喋れるのに、外仕事では置物状態になっちゃうのかしら』
 そう言われても立ち慣れた劇場のステージとテレビの仕事では、緊張の度合いが全然違う。特にあの時は本番直前に内容変更されて、ほぼアドリブで乗りきらなくてはいけなかった。その結果、テレビ慣れした伊織に救われる形になり、俺はただ恥ずかしい格好で観客に笑われて、更に恥ずかしい思いをしただけで終わった。
『篠原くんだってうちの研究生の名前背負って、またモデルの仕事を始めて頑張ってるのよ。篠原くんは多少お喋りは苦手でもあの顔と身長だから絵になるけど、みいちゃんはねえ……分かるでしょ?』
 全部言われなくても分かっている。俺は見た目は平凡だし、歌やダンスが優れているとは言えない。元ゲイビデオの男優なのにフェロモンもなく、女子高生に劇場スタッフと間違われるほどアイドルオーラも全くない。考えているだけで悲しくなる。それでも研究生キャプテンという位置にいるのが不思議なくらいだ。
『これからアンタには研究生を盛り上げるために頑張ってもらわないと。いつまでも伊織頼みじゃ、シトラスには勝てないわよ』
 シトラスの名前を聞いて、俺は我に返った。共演したドラマでも全てが圧倒的だったアヤがセンターを務める、アイドル界のトップグループ。いつかは追いつきたい……いや、追い越したい大きな存在だ。
 アヤと同じ土俵に上がるためには、弱気になって立ち止まっている暇はない。
『というわけで次の仕事、取ってきてるからね』
 こういう経緯で俺にまわってきた仕事が、カツアンドヤスとのバラエティー番組での共演だった。


***


 リハーサルが終わった後、今度はスタジオに観客を入れての本番が始まった。直前の急な変更もなかったし、台本と打ち合わせ通りに行けば全て上手くいく。もうこれ以上、俺は醜態を晒すわけにはいかない。
「それでは今日のゲスト、寺尾プロダクション研究生の水無瀬くんです」
「水無瀬です、よろしくお願いします!」
「ええっ、君アイドルなの!? なんか地味!」
「指さすんじゃないよ、失礼だろっ」
 俺の自己紹介に真顔でボケるカツの後頭部を軽く叩きながら、ヤスが冷静に突っ込みを入れた。後から編集で、大げさな効果音を被せるのだろう。絶妙なコンビネーションに観客も大ウケして盛り上がる。
 そして俺が最近出演した、劇場公演のVTRがナレーション付きで流された。俺をメインで編集していても、ステージで一緒に踊っている伊織や篠原の姿がちらっと映っただけで、それまでは静かだった客席から歓声が起きた。これが格差か……。
 VTRの最後に、俺が女性向けの週刊誌の取材を受けた時に撮影した、上半身裸のモノクロ写真が現れた。顔は平凡だが、腹筋の割れたこの身体だけは自信がある。ここで観客からも初めて俺の対するどよめきが起こった。
「ちょっと水無瀬くん、君の身体すごくない? 細マッチョってやつでしょ」
「昔から体型が崩れないように鍛えたり、食事にも気を遣ったりしてましたね」
「あー、なるほど! ゲイビデオの頃からこんな感じだったのか!」
 俺とヤスの話を黙って聞いていたカツが突然そう言って、俺は一瞬耳を疑った。カツはここで『これからはいつも裸で活動すれば売れるよ!』と無茶なボケを入れるはずだった。
「それ言うなって! ダメだから!」
 しかし当たり前のようにカツの後頭部を叩きながら突っ込むヤスに、俺はますます動揺した。まるで俺だけが何も知らされていないような妙な展開だ。いや、実際こんな流れは台本には書かれていなかった。
 笑ってごまかすだけなら誰にでもできる。しかし今の俺に求められているのはそんな安易な反応じゃない。ここで何も残せなければ、この先ずっとシトラスの……アヤの足元にも及ばないままだ。負け犬、敗北者、落ちこぼれ。そんな言葉がこの数秒で延々と、俺の頭をぐるぐる回りながら膨らんでいく。
 伊織や篠原も自分の長所を生かして頑張っている中で、研究生キャプテンの俺が役立たずではいられない。
 俺の動揺が観客に伝わってしまえば終わりだ。その前にカツの発言に対して上手く切り返さなくてはいけない。
「その頃の俺よりも今のほうが凄いんで、これから是非注目していただきたいですね」
「なにー!? 俺の身体のほうがもっと凄いぞ!」
「お前の裸なんか誰が得するんだよ」
 俺の切り返しにカツはすぐに反応して自分の服を捲り上げようとするが、ヤスのきつい一言に阻まれて再び観客席が爆笑に包まれる。予定は少し狂ったものの、見事にオチがついて無事に次のコーナーに移った。


***


『女装の時はこいつ大丈夫かって思ってたけど、昨日のカツヤスSHOWの水無瀬は良かったな。だいぶ慣れてきた感じ』
『カツが言ってたのってゲイビ男優ネタだろ、口にモザイクかかって音声編集されてたけどそれしかない。水無瀬もよく切り返してたな、まあ台本通りってやつか』
『ていうか加入前の、犯罪行為でもない活動をいつまでも叩く奴ってどうなの? くだらねーって思う』
『変な女から伊織くんを守ってくれるなら、ゲイでもホモでも許せるわ〜』
『カメラの前で男のケツ掘りまくった水無瀬を擁護してる奴はもれなく全員腐女子』
 ゲストとして俺が出たカツヤスSHOW!のオンエア翌日、寺尾に呼ばれた事務所のパソコンで見せられたインターネットでの反応は様々だった。ドラマに出るようになってからは匿名掲示板の類は見ないようにしていが、相変わらず良くも悪くもストレートというか、生々しい書き込みであふれている。スタッフの検閲が入って応援のコメントだけが表示されている、研究生の公式ブログとは全然違う世界だ。
 俺がテレビに出ている最中には毎回、ゲイビデオ男優時代に出たDVDのジャケ写画像をリアルタイムで匿名掲示板に貼りつける誰かもいるようだ。
「みいちゃん、過去をネタにされて怒ってる?」
「いえ、びっくりはしましたけど……まあ、男優のことは事実なので」
「あれは番組プロデューサーを通して、アタシが仕込んだのよ。カツヤスの2人は最後までアンタを心配してたみたいだけど」
 いくら寺尾でもそこまでの権限があるのかと思ったが、寺尾はカツヤスSHOW!のスポンサーもしているらしい。それなら急に俺をゲストとしてねじこんだり、番組内容に口を出すことも不可能ではない。
 そういえば本番収録後、カツとヤスが「驚かせてごめんな」と申し訳なさそうに謝ってきて、俺はますます訳が分からなくなっていた。俺を動揺させるためではなく、スポンサーの意見に逆らえなかった結果のようだった。
「でも何でそんなことしたんですか」
「当然、みいちゃんがあの場を上手く乗り切れるか試すために決まってるじゃないの」
 前から薄々と分かってはいたが、本当に無茶をやる人だな……。




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