稲川先生が主宰する劇団が、来月上演する舞台に向けて立ち稽古を始めた。役者の人達が本格的に組まれたセットの中で、本番と同じ衣装を着てスタッフや稲川先生の前で演技をする。
 僕は正式な劇団員じゃないから、一緒にトレーニングは受けているけど舞台には出ない。その代わり、こうして稽古を見学させてもらえることになった。
 やっぱりドラマとは声の出し方、動き方が全然違う。広い劇場の奥まで、マイクなしで自分の声が届かなきゃだめなんだ。それに場面ごとにぶつ切りで撮影したものを編集で繋げて放送するドラマとは違って、舞台は話の順番通りにお客さんの前で演技をしていく。つまり幕が上がればやり直しのきかない、完全な一発勝負になるってこと。
「伊織くん、ドラマのほうは順調かな?」
 休憩時間になり、稽古場の端で見学していた僕に稲川先生が声をかけてきた。国外でも「世界のイナガワ」として名前の知れた有名な演出家で、75歳になった今でも積極的に数多くの舞台を手掛けている。
「はい、この前台本の読み合わせがあって……僕の相手役、あ、男なんですけど。その人との絡みが上手くいかなくて」
 相手役は間宮潤っていう人気俳優だ。前に僕が降板になった映画の役を引き継いで演じて、それがきっかけで新人賞を獲った。僕から見ても演技はかなり上手いし、読み合わせの段階でも僕とは大きな差がついていた。映画の件では向こうが悪いわけでもないのに、僕の心のどこかでは間宮に対するもやもやとした薄暗い何かが確かに存在していた。これが消えない限り、間宮に恋をする役なんか上手くできるはずがない。これから立ち稽古に入るっていうのに。
 そんな事情を正直に稲川先生に話すと、
「口には出さなくても、人に対する悪意とか憎しみっていうのは伝わるものだからね。私生活ならともかく、仕事でその調子だとまずいねえ。個人的な感情のせいで、伊織くんは自分の役に入り込めてないってことでしょ」
「……はい」
「演技のために相手役に本気で恋をしなさいとは言わないけど、君も俳優のひとりとしてドラマに関わっているんだから、せめて仕事中だけは『自分』を抑えられないとね」
 稲川先生の言うとおりだ。僕が上手く演技しないと、他のキャストやスタッフにも迷惑をかけてしまう。
 今回のドラマは映画の降板以来、俳優としてはマイナスの位置にいた僕が1歩を踏み出すための大切なきっかけだ。絶対、失敗はできない。


***


 街の中でドラマのロケをすることになり、今日はここで僕が間宮に告白をする場面を撮る予定だ。台本の読み合わせや立ち稽古では上手くできずに何度も失敗した、僕にとっては試練の場面でもある。
 スタッフが撮影の準備をしている間、僕は衣装のポケットにこっそり入れていたものを取り出して眺めた。水無瀬から誕生日プレゼントとして貰った細い鎖に、お揃いの指輪を通してネックレスにしたものだ。
 水無瀬は今頃、夜公演に向けて劇場にいるはずだ。この前ゲストとして出たカツヤスのバラエティ番組も評判良かったみたいで、いい感じで波に乗っている。水無瀬は真面目だから、どこの番組に行っても共演者と上手くやれるはずだ。僕も負けてられないよね。
「俺はお前みたいな下手くそと、本当は共演なんかしたくなかったんだよな」
 すっかり浸っていた僕の目の前に、いつの間にか間宮潤が立っていた。僕と同じ衣装のブレザー姿で偉そうに腕組んで、いかにも不愉快! ってオーラを出している。
 こうして本性を現したのは今が初めてじゃないから驚かないけど、読み合わせの後でわざわざ僕のそばを通って、周りには聞こえないように舌打ちしてきたのは今でも覚えている。こういう奴だから嫌なんだよ。
「これはどうも、棚ぼた状態で新人賞獲れた間宮サン」
「だからお前に感謝しろって? ろくに演技もできないゴミアイドルがドラマに出てくんな、邪魔だよ」
 間宮は僕の手から強引にネックレスを取り上げると、それを橋の上から放り投げた。思わず駆け寄っても遅くて、ネックレスはとっくに下を流れる川に落ちて見えなくなっていた。
「ほら、大事なものなんだろ? 早く飛び込んで探しに行けよ」
 ぎゃははっ、という間宮の下品な笑い声を聞きながら橋の欄干を掴む僕の手が、小刻みに震える。怒りと悲しみが混ざり合った僕の心は冷えていき、やがて再び間宮に向き直る頃には無意識に笑みを浮かべていた。
「……はあ? 何バカなこと言ってんの。今僕が飛び込んでびしょ濡れになったら、次のシーンが撮れないじゃないか。お前そんなことも分かんないのかよ俳優のくせに」
 僕の反応が予想外だったのか、間宮は笑うのをやめて顔を引きつらせた。
「僕はねー、お前みたいな薄汚いドブ野郎になんか負けたりしないよ。いつまでも調子に乗ってんじゃねえぞ」
 撮影開始を告げるスタッフの声がして、僕は間宮の横を通り過ぎて撮影場所へ向かった。
 間宮のプライドも何もかも、これから僕が全部ズタズタにしてやるよ。


***


 ネックレスの件は、僕に想像以上の大きな力を与えたみたいだった。
 立ち稽古やリハーサルの時に感じていたもやもやとした曖昧なものが、本番を迎える頃には間宮への怒りというはっきりとした形になっていた。そのおかげで僕は俳優として、間宮をぶっ潰す決意を固めることができた。
 カメラの前で僕は自分でも信じられないほどの熱さに突き動かされるまま、間宮を真っ直ぐに見つめながら台本通りに告白をした。男同士だから、と引いて一歩下がった間宮を逃がすまいと、僕は手を伸ばして間宮の腕を掴む。少し力が入りすぎたのか間宮が痛そうに顔を歪めてもお構いなしに、僕は飢えた獣のように迫り続けた。怯えている間宮の目の中に僕が映り込んでいるのを見た瞬間、監督からカットの声が上がった。間宮が次の台詞を忘れて、バカみたいに立ち尽くしていたからだ。
「ゴミアイドル相手に何ビビッちゃってるんですかあ〜?」
 周りのスタッフに聞こえないように囁いた僕を、間宮が悔しそうに睨んできた。ざまあみろ。


***


 撮影を終えた僕が劇場のロビーで待っていると、水無瀬が着替えを終えて出てきた。
「水無瀬、お疲れ様」
「伊織……撮影終わったのか」
 連絡もなしで待っていた僕に驚いたらしい水無瀬に歩み寄った僕は、正面から背中に腕をまわして抱きついた。公演後だから汗臭いけど、こうしているだけですごく安心する。
「あのね、今日ドラマの撮影前に川に落としちゃったんだ……お揃いの指輪通した、水無瀬から貰ったネックレス」
 水無瀬が何も言わないから、僕は更に続けた。
「大事な場面撮るから緊張してて、だから勇気貰おうと思って眺めてたら手が滑って……本当はすぐに川に飛び込んで、探しに行きたかった。でも撮影あるからできなくて……せっかく水無瀬がプレゼントしてくれたのに」
 ごめんね、と言う僕の声が震えて涙が出てきた。事実とは違うけど、あんな野郎の名前は口にもしたくなかったから伏せておいた。それにネックレスを奪われる隙を与えた僕も甘かったんだし。
 すると僕の頭に水無瀬の手のひらが乗って、優しく撫でられた。
「偉いよお前、よく我慢したな」
「……でも、僕は」
「今回のドラマはお前にとって、大事なチャンスだろ。だから絶対に掴んでほしい。指輪はまた一緒に買いに行こう」
 昔の僕なら後先考えずに、衣装のまま川に飛び込んでいたかもしれない。
 もしかしたら怒られるかもって覚悟してたけど、全然そんなことなかった。この時僕は心の底から、水無瀬を選んで本当に良かったと思った。ずっと一緒にいたいよ。


***


 最初は脇役のひとりでしかなかった僕の出番は、回を重ねるごとに増えていった。
 結局間宮が演じるクラスメートに想いを受け入れてもらえずに傷付いた僕は転校して、ドラマでの出番はそこで終わる予定だった。でもあれから自信を付けた僕の演技に視聴者からの反響がすごくて、転校ではなく数日の登校拒否という展開に急遽変更されて、僕は最終回までの出演が決定した。
 その代わり間宮の出番が減ったような気がしたけど、別にそれは僕のせいじゃないよね。




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