元旦から1週間以上経てば、近所の小さな神社もひっそりと静まり返っていた。 そういえば東京の中学生や高校生は、もう学校始まってるんだよな。北海道は1月の半ば過ぎまで冬休みだったから、こっちに来てからその違いを初めて知った。 俺は賽銭箱に小銭を入れて、手を合わせて祈る。研究生仲間のこと、アイドルのトップを目指す自分のこと、それから伊織のことも。投げ込んだ金額に対してかなり欲張りすぎたかもしれない。 神社でお参りを済ませてからしばらく歩くと、ちょうどコンビニから出てきたスーツ姿の男と目が合った。 「矢野さん、久し振り!」 「水無瀬……」 夢中で駆け寄った俺を、矢野はコンビニの袋を持ったまま驚いた顔で見つめている。 ちらっと見えた袋の中にはサンドイッチと、ペットボトルの無糖紅茶が入っていた。寺尾に呼ばれて事務所に行った時、女性社員が自分の席でこんな感じの昼食を取っていたのを何となく思い出す。 矢野は迫力のある外見と、食べ物の好みがイメージ的にずれているのが面白い。こういうところも好きだ。 コンビニのすぐ前に停めてある黒い車が、俺も何度か乗った矢野の愛車だ。 「あのさ、俺が意識無い間に見舞いに来てくれたこと……電話でもう言ったけど、やっぱり直接会って礼がしたくて。あ、今もしかして急いでた?」 「いや、大丈夫だ。お前本当に元気になったんだな、安心した」 「ゼリー美味かったよ。あの時買ってくれたやつ、覚えててくれたんだ」 「お前とのことを、忘れるわけねえだろ」 矢野が呟いたそれを聞いて、俺はどきっとした。この人とはもうセフレじゃないのに、前に俺の中にあった気持ちには区切りがついているはずなのに、妙に意識してしまう。 「水無瀬、お前が思っているよりも多くの人間が、テレビやラジオでのお前の言葉に救われている。それだけの強い力があるんだ。俺も水無瀬に救われたうちの1人だ」 「えっ、俺はアイドルとしてはまだまだで、そんな力なんて」 「芸能界のことは正直よく分からねえが、俺はずっとお前の味方だからな」 矢野はそう言い残し、車に乗り込んで職場へ戻って行った。遠ざかる黒い車を眺めながら、俺はセフレとして矢野と過ごした日々を思い出す。ゲイのオフ会で出会って以来、俺達は身体だけの割り切った関係で繋がっていたはずだった。 俺は当時、今よりずっとセックスが下手でなかなか矢野を満たすことができずに悩んでいた。それでも矢野は俺を見捨てず、気が付くとセフレどころか恋人同士のような甘い雰囲気になっていて、戸惑うこともあった。それは矢野が実は最初から俺に本気だったからだと、別れてだいぶ経った頃に聞いて知ったのだ。 キスすらしなくなった今も、矢野は俺を気にして支えてくれている。 矢野の言葉はいつでも俺の心に染み込んで、深いところまで届く。一生忘れられない、特別な存在だ。 「藍川さんが今週末、東京に来るそうです」 夜公演が終わってロッカールームで着替えていると、もう身支度を整えた篠原が俺のそばに来てそう言った。 篠原と藍川は研究生として同じステージに立つことはなかったが、何かの特別な縁があるようで個人的にメールのやりとりを続けているらしい。 「懐かしいな、確か京都の実家で修行してるんだろ? 和菓子屋を継ぐための」 「はい、それで会う約束をしてるんですけど、水無瀬先輩も一緒にどうかと思ったので」 「俺も行っていいのか?」 「嫌ですか?」 篠原は俺をじっと見つめながら返事を待っている。 嫌だと思うわけがない。藍川が研究生キャプテンだった頃、まだ加入したばかりの俺はあの人に支えられ、救われてきた。先輩研究生達との関係が上手くいかずに参りかけていた時、その空気を変えてくれたのも藍川だった。 それから俺の過去が週刊誌で暴露された時も、謹慎中だった俺を自分の卒業公演のステージに呼んで、言葉を観客に直接届ける機会を与えてくれた恩人だ。 現役時代の藍川にはまだまだ追いつけていないが、キャプテンになった俺を見てほしいという気持ちがある。 週末、待ち合わせ場所の喫茶店で俺と篠原は藍川に再会した。最後に会ったのが俺の誕生日イベントだったので、あれから半年以上経っている。前は茶色だった髪が黒くなったこと以外、俺が知っている頃の藍川と変わっていなかった。 それから俺は初めて見たが、藍川は細いフレームの眼鏡をかけていた。 「2人とも、久し振りだな。最優秀新人賞おめでとう」 「ありがとうございます、藍川さんも元気そうで良かったです」 「職人の父親に毎日しごかれているよ。本当は兄が店を継ぐ予定だったけど、色々あってね」 藍川が突然研究生の活動を辞退する流れになったのは、そのためだ。詳しい事情は藍川が話さないので、俺も突っ込まないことにした。 俺が選んだこの喫茶店は、伊織ともよく訪れている街の外れにある小さく静かな店だ。他の客の年齢層が高いせいか、外に出ればすぐに囲まれる伊織ですら騒がれることがない。 どこにいても騒がしく華やかな都会の中で、ようやく見つけた伊織との憩いの場。そこに連れてきても良いと思うほど、藍川と篠原は俺にとって大切な存在だった。 俺と藍川が話している間、俺の隣に座っている篠原は黙ったままで話に入って来ない。再会した藍川とは積もる話はあるだろうに、篠原がどういうつもりなのか分からなかった。 藍川がトイレに行って席を離れると、篠原はようやく自分の前に置かれていたコーヒーに手を付けた。運ばれてきてから時間が経っているので、とっくに冷めているはずだ。 「おせっかいかもしれねえけど、せっかく会えたんだから篠原も何か話せよ」 「いや、俺は……大丈夫です」 この場に俺を誘ったのは篠原なのに、何が大丈夫なんだ。そう思いながらも俺は、篠原の声が少し震えていることに気付いた。そういえば俺との会話の合間に、篠原を気にしているらしい藍川から話を振られても、篠原は俯いたまま無愛想に短い返事をするだけだった。 「緊張するんです、藍川さんが目の前にいるだけで。何からどんなふうに話せばいいのか」 こんな篠原は初めて見た。誰かに対してこんなにも口ごもり、普段の淡々とした様子からは想像できない。 篠原が俺を一緒に連れてきたのは、自分と藍川の間に別の人間を挟みたかったからなのか。上手く話せなくても藍川と気まずくならないように。正直に「ついてきて欲しい」とは言わないところが、篠原らしいと思った。 やがて向かいの席に戻ってきた藍川に、俺は思い切って今浮かんだ考えを口に出した。 「藍川さん、俺達と写真撮ってもらえませんか。再会できた記念に」 「分かった、撮影はお店の人に頼んでみよう」 藍川が店員を呼んで頼んでいる間、戸惑っているらしい篠原が俺の服の袖を軽く引いた。 「俺も入るんですか」 「当たり前だろ、藍川さんを真ん中にして3人で撮るんだよ」 店員が協力してくれるらしいので、俺はカメラモードにしたスマホを店員に手渡すと藍川の横に並んで立った。 「君もおいで、篠原くん」 席に座ったまま今でもためらっている篠原に藍川が優しい声で言うと、ようやく立ち上がって俺が指定した場所に来た。アイドルだけでなくモデルもやっている篠原が、仕事ではない撮影で緊張しているのが俺にも伝わってきて微笑ましかった。 スマホのレンズをこちらに向けた店員からの合図で、シャッター音が鳴った。撮ってもらった画像を確認した後、それを篠原と藍川にも送信する。藍川とはこれを機会にメールアドレスの交換をした。 芸能人なら、今日撮った写真をブログに載せてファンに報告したりするだろう。藍川は今は一般人になったとはいえ、去年の春までは研究生キャプテンで人気もあったのだから。 しかし篠原に誘われたのが俺だけだったことを考えると、篠原は今日の件をあまり広めたくないのかもしれない。なので撮った写真はここだけの秘密にしようと思った。 |