「佐倉にはいつか、僕の後を継いで研究生の中心になってほしかった。だからダンスだってあんなに力を入れて教えてきたんだよ!」
 佐倉が活動辞退を発表した夜公演が終わった後の廊下で、伊織はそう叫んで佐倉の両肩を掴んで揺さぶった。
 俺は佐倉を責める伊織の腕を引いて、こちらを向かせた。伊織は驚いた顔で俺を見ている。
「本当に、そんな理由だけで佐倉にダンスを教えてきたのか?」
「みなせ……」
「お前は佐倉を弟みたいに大切にしているから、忙しい中でも教えてきたんじゃねえのかよ!」
 確かに伊織が佐倉を自分の後継者にしたいという希望は前に聞いているし、そのためにダンスを教えること自体は悪くない。しかし伊織は自分を頼りにしてきた年下の佐倉のことを、弟ができたみたいで嬉しいと俺に言っていた。
 だからそれが、今まで佐倉にダンスを教えてきた大きな理由だと思っていた。俺の勘違いだったのか?
 伊織は何も言わずに俺の手を振り払い、廊下の向こうへと走って行った。一瞬追いかけようと思ったが、涙を流し始めた佐倉を放っておけずに俺は立ち尽くした。周囲で動揺しながら様子を見ている研究生達に託せる雰囲気でもない。
 そんな時、ステージ衣装から私服に着替え終えていた篠原が俺の前に現れた。
「俺が行ってきます」
「え……いや、でも」
「佐倉先輩をお願いします」
 動揺と混乱ばかりのこの場で、篠原は1人だけ冷静にそう言い残して伊織の後を追った。
 伊織も佐倉もこのままにはできずに迷っていた俺に伸ばされた、まさに救いの手だった。しかし心配なのは伊織が、普段から敵視している篠原の話に耳を貸すかどうかだ。
「佐倉、とりあえず着替えようぜ」
 ずっと廊下にいるわけにはいかないので俺は佐倉をロッカールームに連れて行こうとしたが、佐倉は首を左右に振ってそれを拒んだ。
「ぼくのせいで伊織さんをびっくりさせてしまったのに、ぼくだけ先に着替えるわけにはいきません」
「お前は何も悪くな……」
「残りの2ヶ月、お世話になった伊織さんと気まずいままでいたくないんです。伊織さんが戻ってくるまでずっと待ってます」
「分かったよ、それならどちらにしてもロッカールームの前にいたほうがいい。伊織は帰る前に絶対着替えに戻ってくるはずだから」
 ようやく納得してくれた佐倉を連れて、俺はこの場を離れた。去年の夏まではあんなに怖がっていた伊織を、今の佐倉はこんなにも慕っている。俺が気付かないうちに、佐倉と伊織は強い絆で結ばれていた。まるで本当の兄弟のような。
 伊織を戻るのを1人で待つという佐倉を、俺は気にしながらも着替えて劇場を後にした。

***


 『丸山食堂』と書かれている看板が掲げられた店の引き戸を開けると、カウンター越しにエプロン姿の女将さんが迎えてくれた。今年51歳になる俺の母親と同じくらいか、少し年上という雰囲気だ。
「あら、いらっしゃい。お兄さん初めての方ね」
「あと少しで閉店でしたっけ、何だかすみません」
「いいのよ、お客さんがそんなに気を遣わなくても。ゆっくり食べていってね」
 夜公演終わりで、閉店まであと30分あるかないかという時間に訪れた俺にも、ゆったりした口調の女将さんは笑顔で対応してくれる。プロだ。
 カウンターの丸椅子に腰掛けて壁のメニュー表を見上げた時、すぐ近くに飾られているサイン色紙の存在に気付いた。『丸山食堂様 いつもありがとうございます』というメッセージと、かなり昔の日付。そしてまだ書き慣れていない感じの6人分のサイン。それらの中心には『FROM シトラス』と書かれている。
 俺がとんかつ定食を注文すると、女将さんは準備をしながら色紙について話をしてくれた。
「シトラスちゃん達、デビューして間もない頃からずっとここにご飯を食べにきてくれていたのよ。あの色紙は『いつか私達が有名になった時に、女将さんが自慢できるように』って、プレゼントしてくれたの」
 だから途中から加入したアヤのサインがなくて6人分だったのか。
「いつもは常連のお年寄りばかりだけど、あの子達が来ると賑やかで楽しかったわ。アヤちゃんも入って、この数年ですっかり有名に、立派になって……みんな今でもたまに顔を出してくれるのよ」
 そんな女将さんの言葉を証明するかのように、開いた引き戸の外から姿を見せたのはアヤだった。俺の顔を見て驚いている。本当に偶然だったからな。
 アヤは俺の隣の席に腰掛け、女将さんに「いつものをお願いします」と伝えた。まさに常連の証だ。
「水無瀬さんにお会いするのは、今年に入ってから初めてですね」
「ああ、年末のディスク大賞であんたに挑発されて以来かな。あれ本気だったのか?」
「私達人間は誰でも年を取ります、それと共に起こる世代交代は避けられない。一般社会でも芸能界でもそれは一緒です。逆境を越えてきたあなたが頂点に立つ姿を見てみたい」
 いや、俺よりもあんたのほうがずっと色々乗り越えてきてるよ……そう思っていると俺の前にとんかつ定食が運ばれてきた。公演で動きまくって腹が減っていたので、早速とんかつにソースをかけて食べ始める。さくさくの衣と分厚い肉。それを茶碗に盛られた白飯と合わせればもう美味さ倍増だ。どこか懐かしい、豆腐とわかめの味噌汁もたまらない。
 夢中で食べ続ける俺を、隣のアヤが真顔でじっと見ていることに気付いて妙に恥ずかしくなった。
「このお店は私がまだ男で期間限定のメンバーだった頃に、ナミが連れてきてくれました。センターとして自信を失くして落ち込んでいた時、ここで食べた生姜焼き定食が本当に美味しくて、気持ちが前向きになりました。ナミが言うには、元気が出ないのはお腹が空いているからだそうです」
 やがてアヤの前に現れた生姜焼き定食を見て、驚いた俺は思わずそれを二度見してしまう。俺の分の白飯は茶碗に盛られているが、アヤのは大きなどんぶりから溢れそうなくらいの量だった。更に生姜焼き自体も、その白飯の量に合わせているのか皿に山のように積み重なっている。
「そんなに食べて大丈夫なのか?」
「いくら食べてもその分動いて消費すれば問題ありません」
 人気アイドルグループのセンターを務めているだけあって、アヤはスタイルが良い。これだけボリュームのある食事をしてもその体型を維持出来ているのは、陰でとんでもない努力をしている証拠だろう。


***


 週明けの夜公演、全員が揃った最後のMC中にマイクを持った寺尾が突然ステージに上がってきて騒然となった。
 寺尾は観客に頭を下げて挨拶をした後、
「研究生の2枚目のシングル発売日が、2月末に決定致しました。そこで今日は早速、曲の立ち位置をここで発表させていただきたいと思います」
 ざわめきが起こる中、俺達研究生は寺尾の指示通りに一旦ステージの左側に移動する。そして前回と同じく呼ばれた順番に後列の左端から並んでいくのだ。
「今回はタイトル曲、カップリング曲共に同じメンバーで歌います。それではまず3列目、西野」
 立ち位置の発表が始まり、俺達は緊張しながら名前が呼ばれるのを待つ。今回は前のように2つのグループには分けないらしい。全員がタイトル曲の選抜メンバーになるが、問題は誰がどこの位置に来るかといいうことだ。
 3列目の10人が呼ばれた後、2列目の発表に入った。3番目の俺のすぐ後に名前を呼ばれたのは、前回伊織とダブルセンターを務めた篠原だった。客席から上がる驚きの声。篠原は特にがっかりした様子も見せずに俺の隣に並んだ。
 2列目の6人が呼ばれた時点でまだステージ端に残っているのは伊織と、3月いっぱいでの活動辞退を発表した佐倉だ。
「1列目センター、伊織」
 寺尾が伊織の名前を呼んだ瞬間、俺は何とも言えない気分になった。伊織のセンターに不満があるわけではなく、1人で残されてしまった佐倉がどうなるのかが気になる。
 それは俺以外の研究生も同じようで、伊織も唇を噛み締めながらステージ端から移動して、センターの位置に立った。
 伊織がそんな様子なので、客席の伊織ファンも拍手はしているものの前のような伊織コールは上がらなかった。
 まさか佐倉だけ2枚目のシングルに参加できないのか。確かに4月以降はいなくなってしまうが、それを理由に選抜から外されるのはあまりにも残酷だ。佐倉は先に呼ばれていった俺達を見ることなく、俯いている。
 妙に長い沈黙を経て、寺尾は再び口を開く。
「センター2人目、佐倉」
 その時、顔を上げた佐倉は戸惑っているような表情をしたまま立ち尽くしていた。客席だけでなく俺達からも大きな拍手が上がる中で、辺りを見回しながらセンターの位置に歩いてきた佐倉を、待ち構えていた伊織がなりふり構わず抱き締めた。
 後日発表されたシングルのタイトル曲は『桜色(さくらいろ)』で、旅立つ仲間を見送るという歌詞のバラードだった。
 劇場公演で初披露して以来ファンの間では佐倉卒業ソングと呼ばれ、ダブルセンターの人選に対する不満の声は上がらなかった。




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