稲川先生が手掛ける舞台の出演が決まった僕は、共演者の名前を聞いて驚いた。
 ドラマや映画で「名脇役」として定評のある香山照彦(かやまてるひこ)。50代前半の俳優で、歌舞伎役者の父親と舞台女優の母親の間に生まれた、まさに演劇のサラブレットだ。
 元から実力者として有名だったけど、中でも香山さんの名前が広く知られるようになったのは銀行を舞台にした高視聴率ドラマで、香山さんは主人公の上司役として出演した。
 最終回では敵対していた主人公に今まで行った数々の悪事を暴かれ、偉い人達の前で主人公に対して土下座をさせられるシーンは、最終回だけ観た僕ですら圧倒されるくらいものすごく話題になった。ただ頭を下げるだけじゃない、目を固く閉じて震えながら太腿を強く叩いて、まるで崩れ落ちるように主人公の足元に両膝をつく。悔しさや絶望が生々しく伝わってくるようなその演技に、1話目からずっと被害者だった主人公のほうが悪役に見えてきた、という感想もあった。
 悪人からコミカルな役まで何でも幅広くこなす、とにかくすごい俳優だ。そんな香山さんとの初共演、さすがの僕でも気を引き締めないといけない。
 そして立ち稽古の日、僕がメインの場面で香山さんが後から登場した時にそれまでの空気が一変した。酔っ払いの役を演じる香山さんは、まるで本当に酔っているかのような口調や足取りだった。離れた位置からでも酒臭さが伝わってくるようなリアルな演技。
 この時、稽古場にいた他の共演者もスタッフもみんな香山さんを見ていた。注目されているのは真ん中の位置にいる僕じゃなくて、端に留まって演技をしている香山さんだった。
 センターが1番良い位置とは限らない、という稲川先生の言葉を思い出す。あの時は納得いかなかったけど、今ならよく分かる。演技の世界で、立ち位置なんか関係ない。本当にオーラや存在感のある役者は、端に立っていても観客の目を惹きつける。
 アイドルをやっている僕はセンターとして目立てるけど、演技の世界での僕はまだキャリアが浅くて、他のベテラン俳優に比べたら足元にも及ばないくらい素人同然。研究生から正式にプロとしてデビューしたら僕は、本格的にこの世界に飛び込むことになる。いつまでもセンターじゃいられない。


***


 そろそろ年末の足音が聞こえてきそうな秋に行われた夜公演のラストで突然、背後の壁に大きなスクリーンが下りてきて、ステージにいた僕達研究生や客席がざわついた。
 劇場の中にいる全員が見守る中、白いスクリーンに映し出されたのは研究生オーディションの映像だった。しかも番号札をつけて自己紹介しているのは、まだ中学生の僕だ。その後は加入後のお披露目公演、研究生初めてのCD発売が決定した瞬間、水無瀬との争奪戦に勝った僕が新公演のセンターに決まった時……と、僕中心の映像が次々と映し出されていった。
 そして最後に映し出された文字に、大きなどよめきが起こった。僕が呆然とする中、大きな拍手や歓声が上がって止まらない。
『橘伊織(たちばないおり)、来年春にプロデビュー決定』
 僕の目には確かにそんな文字が映ったけれど、あまりにも信じられなくてステージの真ん中でマイクを持ったまましばらく動けなかった。


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「伊織くん、プロデビューおめでとー!!」
「公演に観に来てたら、最後に発表があってびっくりしました! おめでたいことだけど、来年からはもう劇場で会えなくなるのは寂しいです〜!」
「でも伊織くんってずっと前から1人でテレビとか出てたし、今までとあんまり変わらないんじゃないですか?」
 翌朝、テレビの芸能ニュースでは早速僕のプロデビューの件が取り上げられていた。劇場近くでの街頭インタビューでは、何人かの女の子達がそれぞれテンション高く語っている。
 確かに僕は研究生の中でも1人での外仕事が多かったし、「研究生」という肩書には釣り合わないくらいの活躍はしていた。だから一般の人から見ればプロになった後も今までと変わらないように見えるかもしれない。
 でも、僕の中では全然違う。俳優の仕事で上手くいかなくて苦しかった時も、劇場という僕がいつもトップでいられる場所があった。どんなに打ちのめされていても、公演のステージに立てばまた自信を持てていた。でも研究生じゃなくなれば、その場所に立って踊ることはもうできない。あそこはプロを目指す研究生達が、夢に向かって汗を流す場所だから。
 将来を誓い合って頼りにしてきた水無瀬や、むかつくけど実はずっと嫉妬していた篠原とも道が分かれる。僕は、完全に1人になるんだ。
 待ち望んでいたプロデビューなのに。今までのアイドル活動はそこへ向かうためのステップだったはずなのに。
 来年の春までに僕は、この不安を乗り越えて笑顔で踏み出せるだろうか。


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「稲川先生が、自分が元気なうちにアンタを本格的に育てたいって言ってるの。これから先生の舞台に出るなら海外公演だってあるし、俳優志望なら大きなチャンスだと思うわ。まさかまだ、研究生のままでいたいなんて言わないわよね?」
 僕は社長の寺尾さんに改めて話を聞きに行った。プロデビューを喜ぶどころか不安になっているのを見抜かれたみたいだ。
 稲川先生に見込まれた若手俳優はみんな、舞台だけじゃなくドラマや映画でも幅広く活躍している。そんなすごい人に、僕は期待されているんだ。
 俳優になりたい夢ばかりが突っ走って実力が伴わなかった僕も、稲川先生の指導を受けるようになってからは演技の仕事が面白くなっていた。香山さんと共演した時みたいに、ベテランとの実力差を思い知ってショックを受けることもあったけど。
「分かっているとは思うけどプロデビューしたら、仕事でアンタが暴走しても止めてくれる人なんかいないんだからね。みいちゃんとの仕事も無くなるんだし」
 寺尾さんの言う通り、これまでは目立とうとして前に出すぎてしまう僕を水無瀬が抑えてくれていた。面倒見の良さにずっと甘えて、僕はやりたい放題やっても反省なんかしてなかった。
 新しい道に進むために、僕は今のままではいられない。1人でやっていくことの重みが、ますます増していく。


***


 レギュラー番組のロケがあった水無瀬は、僕のプロデビューが発表された公演には出ていなかったけど、お祝いのメールをくれた。お互いにそれぞれ別の仕事が忙しくてなかなか会えないから、最近の僕達を繋ぐのは電話かメールだ。
 水無瀬も更に仕事が増えてきて、昔より人気も知名度も上がっている。公演以外の主な仕事はバラエティ番組のひな壇とかトーク番組のMCとか、アイドルというよりもタレント寄りのものが多い。でもすごく楽しそうにやっているのが伝わってくる。やりがいを感じているみたいだ。
『良かったじゃねえか、ようやくお前の夢が叶うんだぞ』
「うん……そうだよね」
 声が聴きたくて久しぶりに水無瀬に電話してみたら、何故か涙が出てしまった。自分でもよく分からないけれど。
『研究生になってお前と会ったばかりの頃さ、初めてキスした時のこと覚えてるか?』
「えっ!? あ……もちろんだよ、レッスンスタジオで水無瀬が、僕に」
『いや、あれは俺が変な理由つけてお前に強引にしたんだけど……って、まあそれは置いといて。あの時はまさかお前がプロデビューして俳優になるなんて思ってなかったよ。ドラマの演技見たら下手くそすぎて、こっちが恥ずかしくなるくらいだったし。でも、やりたいことを諦めたくないって俺に叫んだ気持ちは、ずっと本物だったよな』
 初めての映画出演が決まった時、僕はかなり浮かれて調子に乗っていた。俳優志望なのに普段はアイドルの仕事ばっかり来るって、軽い気持ちで愚痴ったら水無瀬にきつい言葉で叱られた。僕以外の研究生は今と違って公演以外の仕事が全然なかったから、僕が乗り気じゃないアイドルの仕事だってやりたい研究生がどれだけいるか考えてみろ、って。
 出会って間もない、しかも険悪な雰囲気だった僕と真剣に向き合ってくれた。あの時から僕は水無瀬を……。
『寺尾さん、伊織が抜けた後は誰をメインに推していくんだろうな。お前の代わりって、誰でもできるもんじゃねえだろ』
 そんな水無瀬の言葉に、僕は我に返った。僕が自分の後継者として育てた佐倉はもういない。今年の春で活動を辞退して、普通の高校生になった。後継者ってだけじゃなくて、佐倉は過去に色々あって思い入れのある存在だったから、辞めるって分かった時は本当に寂しかったんだよ。
 ……ずっと前に僕達で似たような話をした時、水無瀬が理想的な次のエースとして名前を挙げたのは篠原だった。研究生では唯一の180センチ越えの長身で顔も雰囲気も大人びていて、今では僕と並んで研究生のツートップとも呼ばれている。
 普段は淡々としてあまり喋らないけど、ステージの上では完全にスイッチが入って輝きを放つ。もし篠原が次のエースになれば公演のセットリストも一新されて、僕がいた頃とは全く違うものになる。今の公演曲はセンターをやってる僕のイメージ中心で作られているからだ。
 篠原も水無瀬と同じく歌もダンスも未経験だったけど、自主練を積み重ねていくうちにかなり踊れるようになった。歌もまあまあだし……でも、アイドルとしては僕にはまだ全然勝ててないよ。僕には来ないモデルやファッションショーの仕事には引っ張りだこで、なんか調子に乗ってるけど。
 最終的に全て決めるのは社長の寺尾さんだ。ここで僕達が討論したところで、確実に意見が通るわけじゃない。水無瀬は寺尾さんに気に入られてるから、キャプテンからの視点で見込みがありそうなのは誰かって程度は聞かれるかもね。




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