ディスク大賞の前日に突然事務所に集められた俺達研究生は、そこで寺尾が差し出してきた1枚の紙を見て、言葉を失った。 そこには「ディスク大賞を辞退しなければ研究生全員を抹殺する」という文章が印刷されていた。それを見た最年少メンバーの西野が真っ青な顔で震えている。それは事務所宛てに数日前に届けられたもので、すでに寺尾は警察に被害届を出しているという。 「もしこれを見て、命が惜しいと思った子は明日のステージには上がらなくて良し。逃げてもいいわよ」 平然とした調子で、寺尾が俺達にそう言った。事務所社長の言葉にしては正しいのかどうか分からないが、寺尾が俺達の覚悟を試していることは明らかだった。大きな椅子に腰かけながら、見つめているのは机を挟んだ正面にいる俺達ではなく、机に置かれている脅迫状だ。寺尾は俺達に選択肢を与えているが、暗に「ここで怖気づくような奴はいらない」と言っているようなものだ。それくらい明日のディスク大賞は俺達にとって大きな意味を持つ、次の段階に進むために必要なものなのだ。 そして翌日、ディスク大賞を放送するテレビ局には17人の研究生全員が集まった。紙1枚の脅しに屈した者は誰もいなかった。 俺達が大賞を受賞して生放送が終了した後、テレビ局の周囲をうろついていた不審者が逮捕されたらしい。 下剋上、と大きい文字で一面に書かれたスポーツ新聞が全国の店に並んだ。昨日のディスク大賞でシトラスを破り、俺達研究生が大賞を受賞したことで話題となった。受け取った楯を持って号泣している俺の写真が想像以上に大きく掲載されていた。 「大賞おめでとうございます、水無瀬さん」 こちらから挨拶に行く前に俺の楽屋を訪れたアヤが、淡々としたいつも通りの口調でそう告げてきた。年末の特番での共演が前から決まっていたのだ。今日の楽屋は俺個人に与えられたもので、今は俺とアヤ以外は誰もいない。 「前のディスク大賞で言われた通り、シトラスから大賞の楯を奪うつもりで全力出してたからな」 「正直、水無瀬さん達が俺フェスティバルでノミネートされたら、私達の3年連続受賞は危うくなるだろうと思っていました」 アヤはいくつかある椅子には座らず、入り口近くの壁にもたれながら話を続ける。 「ノミネートされた私達の曲は確かに多く売れましたが、俺フェスティバルより世間に愛されて話題になったかと言われれば違う。カラオケランキングやダンスの投稿動画数を見れば、誰が見てもそれは明らか。やっぱりあなたは、私の期待通りの人でした」 「大賞を獲れたのは、俺だけの力じゃねえよ。あんたは前から俺のことを、やけに気にしてくれてるみたいだけどな」 「だいぶ前にあなたがセンターを務めた研究生公演を初めて見た時、只者ではないと思ったからです。ダンスは粗削りでしたが、他の皆が水無瀬さんの影響を受けて生き生きと踊っているのがこちらにも伝わってきました」 アヤが言っているのは、篠原のお披露目公演のことだ。俺が伊織の代わりにセンターに立ち、本来の俺のポジションに篠原が入った。その時は色々あって、俺は階段から落ちて右足を痛めたが応急処置をして最後まで出演したのだ。絶対に成功させなくてはいけない公演だったから。当時はキャプテンではなかった俺が勝手に仕切ってしまったのをよく覚えている。 「それに……どんなに中傷されても、決して折れずにここまで上り詰めた水無瀬さんに興味があるから。来年の春以降は、あなたが研究生の象徴となるでしょう」 「象徴ってもしかしてエースのことか? 俺は今キャプテンもやってるし、そこまではさすがに」 俺が苦笑いしながらそう言った途端、アヤの目つきが鋭くなった。 「水無瀬さんの夢は、トップアイドルになることですよね? いつまで今の立場のままで満足している気ですか!?」 「別に満足してるわけじゃねえよ、俺は今の自分の役目をしっかり果たしていきたいだけだ」 「私達を追い抜いてディスク大賞を獲ったのは、誰がセンターを務めた曲でしたっけ? あなたが『顔』となった曲を皆が愛して、そして大賞という形で認められた。なのにまだ、象徴となる覚悟がないと?」 俺フェスのセンターに決まった時、俺はトップアイドルになるという夢を抱きながらも喜びより先に激しく動揺した。しかも伊織がセンターの片割れを務めた、前の2曲よりも売り上げが落ちるだろうと思った。そんな俺の後ろ向きな態度が出ていたのか、矢野には電話越しに心配されて、センターをやる気満々だった伊織にはしばらく無視をされた。 全部、俺の覚悟が中途半端だったせいだ。 伊織が抜けた後、次のエースにはずっと前から俺は密かに篠原を推していた。人気も知名度も、そして伊織に負けないくらいの「華」がある。研究生のファンも伊織の後継者が篠原なら、違和感なく受け入れてくれるだろうと。俺が次のエースになるなんて考えもしなかったのだ。キャプテンとして皆を支えたいという気持ちのほうが、いつの間にか大きくなっていた。 さっき俺がアヤの前で口に出したのは、単なる言い訳でしかない。ずっと期待してくれていたアヤが怒るのも当然だ。 「私はもうこれ以上何も言いません、失礼します」 黙ったままの俺に背を向けて、アヤはこの楽屋を出て行った。丁寧に閉められたはずのドアの音が、やけに大きく俺の胸に響いた。 『人気アイドルグループ・シトラスのアヤさん、急性心不全で死去。24歳』 その衝撃的な一報が年明けの芸能界、そして世間を大きく揺るがせた。俺は自宅でバラエティ番組を観ていた時に突然入った臨時ニュースでそれを知ったのだ。仕事が終わって1人きりの部屋で、頭が真っ白になって何も考えられなくなった。 俺とアヤはあれからずっと顔を合わせることもなく、気まずくなった関係を修復する機会も与えられないままだった。 アヤは音楽番組の収録後、楽屋で体調不良を訴え病院に運ばれたが、その約2時間後にシトラスのメンバーに看取られながら息を引き取ったという。 俺にとってのアヤは、恋愛とは違う意味で特別な存在だった。本当は望月貴也という男だったが、臨時加入していたシトラスの正式なメンバーになるために性転換手術を受け、女性アイドルとして生きてきた。 ゲイビデオのバイトをクビになった日、偶然スカウトを受けて研究生となった俺とは覚悟のレベルが天地以上の差がある。 歌もダンスも演技も、全てが完璧だった。しかしその陰では、俺には想像できないほどの苦労や血のにじむような努力があったに違いない。 できればもう1度だけでも、直接会って話をしたかった。 公演が終わった後に立ち寄った丸山食堂の女将さんは、今回も閉店ぎりぎりに入ってしまった俺を温かく迎えてくれた。 「いらっしゃい、久し振りね」 「俺を覚えていてくれたんですか」 「1度来てくれたお客さんのことは、ちゃんと覚えているわよ。それにあなたは、最近よくテレビで見かけるもの」 「え、あっ、ありがとうございます……」 そんな嬉しい言葉に心を和ませながら、俺はとんかつ定食を注文する。それがとても美味かったのを覚えているので、前回と同じものを選んでいた。 少し経つと、店の入り口の引き戸が開く音がした。俺は反射的に顔を上げてそちらに視線を向ける。するとそこにいたのは、シトラスのリーダーを務めるナミという女性だった。彼女はカウンター席にいる俺を見て、かなり驚いた顔をした。 「君……水無瀬くん、だよね?」 ナミとは昨年末のディスク大賞で顔を合わせているが、まさか今ここでも……いや、あり得ないことではなかった。この丸山食堂は、まだ無名だった頃からシトラスのメンバーがよく訪れている馴染みの店らしい。その証拠に、天井近くのメニュー表のそばには、まだアヤが加入する前の日付が添えられたシトラスのサイン色紙が飾られている。 「おばちゃん、いつものやつね!」 迷うことなくナミは俺の隣の椅子に腰かけると、かつてのアヤと同じように常連ならではの調子で注文をする。女将さんは長い付き合いのせいか、メンバーの好物を把握しているようだ。 「アヤかと思った?」 「えっ」 「さっき、あたしが入ってきた時にすごい反応してこっち見てたからさ」 「いや、それは……何ていうか」 「……なんてね、冗談だよ。前にここで水無瀬くんに会ったこと、アヤから聞いてたんだ」 去年の春頃、俺は何となく立ち寄ったこの店でアヤに会った。まだアヤが男だった頃、自信を失くして落ち込んでいた時にナミがここに連れてきて励ましてくれたこと。そしていつか、俺が頂点に立つ姿を見てみたいと言ってくれたこと……アヤから聞いた色々な話を思い出して、俺は目頭が熱くなった。 アイドルの俺にとってのアヤは、優しさと厳しさを兼ね備えた師匠のような存在でもあった。 「アヤがいなくなってから、あたし達はいっぱい泣いたよ。だってあまりにも思い出がありすぎて……それに、アヤが来てくれたからシトラスはこんなに大きくなれた。あたし達と一緒に歌うためにアヤは……ううん、貴也くんはその後の人生をシトラスに賭けてくれた。本当に、感謝しかないよ」 やがて女将さんが俺のとんかつ定食と、ナミが注文した「いつもの」カツ丼を運んできた。しかも目を疑うほど大きな器に、卵が絡んだ特大サイズのとんかつが乗っている。肉に隠れてほぼ見えない状態だが、白飯も大量に盛られているだろう。アヤが注文していた生姜焼き定食もこんな感じの量で、隣で見ていた俺は圧倒された。 「シトラスは、たくさん食べてたくさん動くのが基本だからね。アヤが残してくれたものを無駄にしないために、シトラスはこれからも前に進むよ……」 ……強い。美味そうに特盛カツ丼を食べ進めるナミを眺めながら俺はそう思った。カウンターの向こうにいる女将さんも、話を聞きながらアヤを思い出していたのか、目に浮かんだ涙を指で拭っている。 ナミに指摘された通り、引き戸が開いた瞬間に頭に浮かんだのはアヤだった。何事もなかったようにこの店に入ってきて、あの大盛りの生姜焼き定食を注文する。そんな姿を想像した。 24年の人生を強く美しく駆け抜けた1人のアイドル。俺の心にも、確かに多くのものを残していった。 |