鮮やかな色 少年、と言うにはどこか違和感がある。 血筋のせいか、体格はその辺りに居る大人の男にも劣らない。16というまだ未熟な年齢の割にはしっかりと完成されている印象だった。その憎らしい中身以外は。 僕はそいつのことが嫌いだ。大人げないと言われようが、顔を合わせた時に取っている刺々しい態度を改める気にはならない。永遠に交わることのない者同士だと、そう 思っていた。 大きな手のひらが、僕の頬に触れる。あらゆるものを破壊し、そして元通りにする力を持つその手に優しく撫でられ、身体の内側から熱い痺れを感じた。決して不快な感覚 ではなく、後から胸に広がるのはとろけるような甘さだった。そんなことは口に出さなければ悟られはしない、どうせ鈍感で単純な奴だから。 一生気付かないまま過ごせていたら、どんなに楽だろうか。町のどこかで顔を合わせる度に罵り合って別れる、それで良かったのだ。この先もずっと、考えるのは漫画の ことだけでいい。それ以外の面倒事はごめんだ。 「俺にこうされてるのが嫌なら、逃げるなり殴るなり好きにしてもいいんだぜ」 あんたに任せるよ、とこちらに真剣な顔を向けてそいつは言葉を続けた。 力ずくで拘束されているわけでもない、この男の言うとおりいくらでも拒むことができた。しかしそれでも、まっすぐな視線から逃れられずにいる。 僕の判断に委ねるのはずるい、と思った。何かを奪いたいのならそうすればいい、その力を持っているはずだ。本人に自覚はなくても、頬に触れている手のひらの温かさのせいで ずっと僕を支えてきた意地も何もかもが、脆く崩されてしまいそうになっている。 こいつは僕の漫画に興味を示さない、感覚も髪型のセンスもずれまくったダサい男なのだと、呪文のように何度も胸の内で繰り返す。時間が経っていくと、一体何のために そうしているのか分からなくなって、胸が苦しくなる。こんな思いまでして、ここに留まる価値があるのだろうか。情けないところを、一番見せたくない相手に晒して しまうかもしれないのに。 漫画も売れ、大きな家も手に入れた。このままずっと、自分の足で立って歩いていけると信じていた。しかし実際、この命は幼馴染の少女の犠牲と引き換えに守られたもの だった。僕ひとりの力でここまでやってこられただなんて、間違った幻想なのだと知った。 嫌いな奴に心を乱されて、やがて身も心も許してしまうのは腹立たしい。そして恐ろしい。この大きく温かい手にすがって生きることになるのは。 それでも僕の身体はその手を拒むことはなく、足は地面に根を張ったかのように動けない。もしかすると、僕の気持ちはすでに、無意識に決まっているから動かないのか。 延々と葛藤なんかして、本当に馬鹿みたいだ。 頬に触れていた手はやがて首筋を滑って肩へ動く。腕にたどり着いたと思えば、最後は腰まで下がりそのまま抱き寄せられた。きつすぎない香水の匂いが、身体の温もり と共に伝わってくる。目を閉じて、感じる全てに身を委ねる。僕の知らなかった小さな世界がこの腕の中に、確かに存在していた。 「なあ、逃げねえの?」 「逃げてほしいのか」 「……いや、ここに居てほしい」 気が遠くなりそうな甘いやりとりの後、唇が触れ合う。軽く重なり、そしてすぐに離れていく。それはくちづけとは言えないくらいの、あまりにも子供っぽい行為だった。 それでも充分に満たされた僕は愚かだろうか。 目の前の男に手を伸ばし、今度は僕がその頬に触れようとした時、急に視界が白く塗り替えられて何も見えなくなった。 見慣れた天井をぼんやりと眺めながら、どうせこんなオチだろうと思いため息をついた。 原稿を一気に仕上げた疲れが溜まり、寝室にたどりつくこともできずに仕事場の床で力尽きていたのだ。こんな固いところでよく眠れたものだと我ながら呆れた。 それにしても妙な夢だった。まさか僕があの憎らしい男とあんなことに。とんでもない悪夢だ。 寝起きのだるい身体を起こしていると、玄関から呼び鈴が鳴った。動くのが面倒なので居留守を使ってやろうと思ったが、今日に限って出なければならないような気分に なり、仕方なく玄関に向かった。セールスか何かだったらスタンドを使って追い返してやる。そう思いながらドアを開けた途端、無意識に小さく声が出そうになった。 「……先生、ちわっス」 何故か苦笑いしながら立っていたのは、東方仗助だった。先ほどの夢での出来事を思い出す。あの夢に出てきたのはまさしくこいつだ。悔しいことにあんなに翻弄された。 「急にどうした、お前ひとりか」 「いや、実はこの前お邪魔した時に櫛を忘れてきてしまいまして。どっかに落ちてませんか」 「櫛?」 「あれがないと外で髪を整えたい時に、不便なんスよね」 「見てきてやるから、ここで待ってろよ」 確かこいつを通したのは客間だけなので、そこに行けば見つかるだろう。そういえば前にも僕の家に財布を忘れて行ったことがあった。何でもかんでも置いていきやがって、 本当に腹立たしい奴だ。この僕がわざわざ車を使って、だらだらと帰宅途中の仗助を追う羽目になったのは屈辱的だったので、今でも覚えている。 客間に行ってソファの近くを探すと、テーブルの下に黒い櫛が落ちていた。外見や言葉遣いは不良そのものなのに、鏡や櫛を常に持ち歩いて女みたいな奴だと思った。 再び玄関に戻って櫛を手渡すと、笑顔で礼を言われた。その後も仗助は僕の顔をじっと見ている。 「何だ」 「先生、今日は機嫌いいんスか」 「どうしてそう思う?」 「いつもより態度が柔らかいっつーか、うまく言えねえけど」 僕はいつも通りに接しているつもりだったが、こいつには違って見えたらしい。わけのわからない夢は見るし、くそったれ仗助にはおかしな勘違いをされるし、今日は嫌な日だ。 あの夢のことを記憶から消し去ってしまいたい。いつまでもしつこく覚えているから、調子が狂うのだ。 もし、生まれてから今までのことを少しも忘れずに延々と覚えている人間が居るとすれば、そいつは生々しい記憶の重みに耐えきれずに破滅するだろう。 「気のせいだろ、きっと」 僕がそう呟くと仗助は、そうですかねえ、と白々しい感じで言葉を返してくる。その緩んだ表情を見て、からかわれているような気がして苛立った。 受け取った櫛を胸の内ポケットにしまった仗助が、こちらに背を向ける。用を済ませてこれから家に帰るのか、それとも誰かと待ち合わせて遊びに行くのか。 別にどれでも、僕には関係のないことだ。学ランに包まれた広い背中を、何も言わずに眺める。そこで終わると思っていたが、ゆっくりと振り向いた仗助と再び目が合った。 「またな、露伴」 仗助の唇がその6文字の台詞通りに動いた時、僕の中の苛立ちは驚きに変わった。本人は何気なく口に出したつもりだろうか。聞き慣れない優しい口調と呼ばれ方。 見ていたあの夢は忘れるどころか、鮮やかに色付きながら僕の胸によみがえる。この身で感じた苦しさも温もりも全て。 ドアの外に広がる町の景色に溶け込んでいく後ろ姿が見えなくなるまで、僕はその場から動くことができなかった。 |