甘さと愛しさに満ちたこの部屋で もうすぐ仗助が帰る時間だ。向かい側のソファに座って話をしていた仗助が腕時計を確認したのを見て、そう思った。 早く帰ってほしいわけではなく、むしろその逆だ。ひとりで過ごすことには慣れていたはずが、うるさいのが居なくなると急に気が抜けて、広い家が静まりかえっている ように感じた。仕事に集中できる時間が戻ってきて、喜ばしい状態だというのに。しかし無理に留まらせるわけにもいかず、それを自分から口に出すのは抵抗がある。 明らかに校則よりも自分の趣味を優先した派手な見た目とは逆に、夕飯の時間にはしっかり帰宅するという律儀ぶりには驚かされた。外食よりも母親の作る料理のほうが 比べ物にならないほど美味いと、嬉しそうに語っていたのを思い出す。 俺そろそろ帰ります、と言われて立ち上がった仗助と共に客室を出て、玄関に向かった。 別れ際に抱き合って唇を重ねるという、いつの間にか定着した挨拶を交わす。 それが終われば出ていく仗助を見送るだけだ。間違っても、名残惜しそうな顔など絶対に見せない。 唇が離れた後、仗助は出ていく様子を見せずにこちらを黙って見つめている。露伴はそんな仗助に戸惑いながらも、視線を逸らせずにいた。 「……何だ」 「先生、良かったら今から俺の家に来ませんか」 「今って、これからお前は夕飯の時間なんだろう?」 「だから、一緒に食いましょうよ。おふくろのメシ、美味いっスよ」 仗助は白い歯を見せながら笑みを浮かべ、露伴の両肩に手を置いてきた。唐突な提案だったが何となく断れずに、そのままついていくことにした。 そういえば仗助の母親と会うのは初めてだ。仗助は露伴について色々と話をしているようだが、果たしてどんなふうに語られていることか。 母親に連絡を入れると言う仗助に自宅の電話を貸している間、露伴は車の鍵と上着を取りに行きながらそんなことを考えていた。 「もー! あんたがもう少し早く言ってくれれば、もっといいもの作ったのに! あ、ごめんなさいね露伴君、あまり手の込んだものじゃなくて」 「いいじゃねえか別に、カッコ付けなくてもよお」 「うるさい!」 食卓で交わされる東方親子のそんなやりとりを聞きながら、露伴はハンバーグに添えられている野菜を口に運んだ。 仗助の母親とは初対面だったが、仗助に連れられてきた露伴を温かく迎え入れてくれた。 大学生の頃に仗助を生んだだけあり、今でも若々しい美人だ。 はっきりとした濃い顔立ちもどこか、仗助に似ている。更に感情的になりやすいところも。母親からは性格まで受け継いでいるようだ。 いつもはひとりだけの夕食だが、今日は一転して騒がしい。食事中もテレビは付けっぱなしで、放送されている内容に親子で激しく突っ込みを入れながら食事をしている。 高校卒業後はすぐにひとり暮らしを始めた露伴にとって、家族で食事をしたことなどもはや遠い思い出だ。こんなに賑やかな雰囲気でもなかった。 やがて残さず全て食べ終わると、使った食器や箸などをまとめて台所に運ぼうとして立ち上がる。 「あらっ、いいのよ! 後で片付けるからそこに置いといて!」 「そうそう、後は全部おふくろがやってくれますから」 「あんたが言うな仗助!」 「いえ、これくらいはしないと。ごちそうさまでした、美味しかったです」 露伴はそう言って、台所に食器と箸を置きに行く。その後でまだ残っているハンバーグを口に入れた仗助も、夕飯を終えた。あまり長居してもどうかと思ったが、仗助に 誘われて部屋に行くことになった。 ドアを開けると、意外にも中はきれいに片づけられていた。服などを脱ぎ散らかしているイメージを勝手に持っていたので、これは予想外だ。ベッドもきれいに整っている。 そして小さな棚には、ゲームの攻略本や洋楽のCDなどが入っている。本人が一切読まないと公言している通り、漫画は1冊もなかった。他に本といえば若者向けのファッション誌だけだ。 「その辺に適当に座ってくださいよ」 仗助はベッドを背もたれにして腰を下ろす。その隣に座ると、露伴は仗助の口元に米粒がついているのを発見した。そこに何となく手を伸ばそうとして、慌てて考え を改める。新婚夫婦ならともかく、男同士でそんな恥ずかしいことができるはずがない。 「口についてるぞ、米粒が」 「え、マジっすか」 露伴が指摘すると、仗助は厚めの唇に触れて確かめる。しかしその指は米粒に届くことはなかった。それを取ろうとする気すらないようだ。そして意味深に目を細めると、 妙に表情の緩んだ顔をこちらに近付けてきた。 「俺じゃ分かんないんで、先生取ってもらえますか」 「何言ってるんだ、赤ん坊かお前は」 「いいじゃないっスか、たまには」 「僕はしない! 絶対にしないからな!」 両手を前に突き出しながら、これでもかというほど強く拒否する。行為自体も恥ずかしい上に、取った米粒をどうすればいいのかという迷いもあった。 露伴の拒みっぷりを見て、仗助は急に落ち込んだ表情になる。 「そうっスよね、いきなりこんなこと頼んで先生を困らせるなんて俺、すげえわがままかも」 こいつはいつもそうだ。謙虚な振りをしながらも、その目はしっかりと露伴の様子を窺っている。自分の思い通りにこちらを動かそうとしているのだ。まるでサイコロ賭博 を持ちかけてきた時のように。当時は本当に嫌いで関わりたくなかったので勝負を渋っていたが、 仗助からなけなしの3万円を取り上げるのが面白そうだという理由もあり、結局乗せられてしまった。そして今回も根負けする羽目になる。 深く息をついた後で仗助に顔と身体を近付ける。舌先で米粒を取ると、それを薄く開いていた仗助の口の中へ押し込んだ。そのついでに唇が軽く重なった。 赤面している仗助からすぐに離れ、正面から睨みつけた。単なる照れ隠しだが、それを見抜かれないように必死だった。 「ほら、取ってやったぞ! 満足したか!」 そう言うとすぐに目を逸らしたが、強く抱き締められて逃げられなくなる。 「指で取ってくれるだけで良かったんスよ、先生やりすぎ」 「何だ、自分から頼んできたくせに文句があるのか」 「文句どころか、びっくりしたけど何か得した気分っていうか」 あのほうが、あまり視線を合わせることなく済むと思った。改めて思い出すとかなり恥ずかしいことをしたかもしれないが、何もかも今更だ。 「ところでお前、僕のことをどういうふうに説明したんだ」 「え、おふくろにっスか……16の頃から漫画家やってる、いつも世話になってる人だって」 「それだけか?」 「先生って喋り方はきついけど、何だかんだで面倒見のいいとこも、すげえ好き」 今度は仗助から唇を重ねてきた。触れるだけだったくちづけは、深いものに変わっていく。 いつの間にか答えがこちらの質問内容とはかけ離れていっているような気もするが、苛立ちは感じなかった。 告白してきた時はわがままだの自己中だのと言いたい放題だったくせに、ずいぶんな変わりようだと思う。 しかしこちらも、仗助に対する印象は最初の頃とかなり変わっている。 前までは知ろうとも思わなかった色々な面が見えてきて、興味を持つようになった。 「ようやくおふくろにあんたを紹介できたし、やっぱり連れてきて良かった」 「紹介、って……」 僕はお前の彼女か、と露伴は口には出さずに突っ込んだ。まるで主人に懐く大型犬のような調子で頬や額に唇を押し当ててくる感触が心地良く、限りなく甘い。 1階に母親が居るのにこんなことをしていて大丈夫なのかと思ったが、仗助が毎日寝起きしているこの部屋の空気に包まれていると、細かいことはどうでも良くなっていた。 |