記憶の行方





退院した母親はあれから、今まで通りの振る舞いで過ごしていた。
誰かと電話で話をしながら笑い、夜に放送しているドラマを観ながら泣き、朝なかなか起きられない仗助の布団をはがしながら怒声を上げる。
しかし母親の記憶にはあの忌まわしい出来事が消えずに残っている。数日前、ハサミを自らの両腕に突き刺したことを。もちろん本人が望んだ行為ではなく、操られたのだ。
無関係の母親を巻き込んでしまった悔しさ、そして例の手紙を送りつけてきた犯人に対しての怒り、胸に渦巻くそれらの感情は1日学校を 休んで数日経った後も治まらなかった。
もし手紙を自分で開けていれば、母親は怪我を負わずに済んでいた。スタンドの能力では仗助自身の傷は治せないが、身内に被害を与えられ るよりはずっとマシだ。警官をやっていた祖父を亡くした今、母親を守れるのはもう自分しか居ないのだから。
今回の件で、以前に立てた祖父の代わりにこの町と母親を守るという誓いを踏みにじられたような気持ちになったが、 テレビゲームに夢中になって自分宛ての郵便物の開封を母親任せにしてしまったことが原因だ。 顔も名前も知らない犯人を絶対に許すつもりはないが、仗助は自分にも責任があると考えた。あの日以来、テレビゲームをやる気分にはなれない。
ハサミで突き刺した傷は、仗助が少しの痕跡も残さずに治した。後はあの出来事の記憶を忘れさせてやりたいと思っていた。仗助の前では平然と振る舞っているとはいえ、 あの記憶を抱えたままではこれから思い出す度に混乱し、辛くなるだろう。無意識に自殺を図るような行いをしたことなど、覚えていても苦しいだけだ。
そんな無謀な願いを叶えられる男を、仗助は知っている。しかし決して仲が良いとは言えず、町で遭遇する度に刺々しい雰囲気で接してくる腹立たしい男だ。 なるべく関わりたくなかったが母親のことを考えると、頭を下げてでも頼むしかない。
そんな決意を固めていた時、突然部屋のドアが開いて母親が顔を出した。驚いて、身体を沈めていたベッドから慌てて身を起こす。

「仗助、あんたに電話!」
「誰から?」
「岸辺さんっていう方から」

それはあまりにも、出来すぎているほどのタイミングだった。まるで考えを読まれていたかのようで恐ろしくなる。
仗助のほうから連絡を取ろうとしていた人物が、向こうから接してきたからだ。母親から電話の子機を受け取る手は、わずかに震えていた。


***


十数分後に鳴った呼び鈴に反応し、仗助は1階のソファから立ち上がる。
玄関のドアを開けた先には先ほどの電話の相手が居た。しばらく顔を見ていなかったが、記憶の 中に残っているものと同じ、無愛想な表情でこちらを見ている。
明らかに好意のかけらも感じさせない様子に、仗助のほうもつい同調してしまう。 何度も繰り返している悪循環だ。

「……久し振りっスね、先生」
「今回の件がなければ、会うこともなかっただろうがな」
「そんなのお互い様っスよ。それより今はおふくろのことを」
「分かっている」

岸辺露伴は固い口調で言うと、靴を脱いで家の中に入ってきた。横を通った瞬間、銀色のイヤリングが目の前で揺れる。
台所で夕飯を作っていた母親が露伴の存在に気付き、手を止めて振り返る。露伴は挨拶をした直後にスタンドを発動させ、一瞬にして母親の意識を奪った。 その場に崩れ落ちた身体に近付き、まるで本のページのように捲れた頬の一部を覗き込んだ。仗助も駆け寄り、すぐそばでその様子を見守る。
やっぱりな、と露伴が険しい表情で小さく呟く。母親の記憶には『両腕をハサミで突き刺し自殺を図った』という文章が書きこまれていた。
その部分だけが異様な雰囲気を放っていた。他の記憶とは違う、何者かの悪意によって強引にねじこまれたものだと分かる。他人の記憶を操る露伴のスタンド能力と似ているような 感じがしたが、仗助の中には露伴が犯人だという考えは全くなかった。
顔を上げ、露伴と目が合った途端に鋭い目で睨まれる。

「まさかお前、僕が犯人だと思っているんじゃないだろうな」
「確かにあんたのことは好きじゃないけど、あんな卑怯な手段を使う奴だとは思ってねえよ」

仗助の言葉には何も答えず、露伴は何者かが書きこんだ文章をスタンド能力を使って消し、捲れ上がっていた頬も元通りにした。仗助が望んでも不可能だったことを、 露伴は何気ない調子でこなす。スタンド能力の違いだと分かっていても、自分の力だけでは母親を救えなかった事実を改めて思い知らされた気分になった。
この男には以前にも1度、敵スタンドに襲われ危機に陥った時に救われたことがある。その恩を忘れたわけではないが、こちらに対する噛みつくような態度は相変わらずで、 あの出来事をきっかけに期待していた友情は結局生まれることはなかった。初対面での印象が最悪だったせいもあるのか、致命的に開いてしまった距離は縮まらない。
世の中は、ひとりの力ではどうにもならないことで満ちている。人間関係を始めとする何もかも。こちらがいくら歩み寄ろうとしても、向こうから跳ね返されてしまっては どうにもならない。露伴に対してはもう、永遠に交わることのない相手として諦めるしかないのだろうか。

「僕にできるのはここまでだ、後はお前に任せる」

その言葉で我に返った。仗助の母親の中にある、先日の出来事に関する記憶を消すという役目を終えた露伴は立ち上がり、玄関に向かって歩いていく。 少し遅れてその後を追い、再び靴を履く露伴の背後に立った。
この男が去る前に伝えなくてはいけない言葉がある。

「今日は、ありがとうございました」

普段の険悪な雰囲気を今だけは忘れ、その背中に向けて頭を下げた。仗助にはできない方法で母親を救ってくれた、この男に。
何がきっかけで仗助の母親の記憶を消そうと思ったのかは分からない。誰かに言われたのか自主的にそう考えたのか、どちらでも構わなかった。感謝の気持ちは変わらない のだから。こちらが頼む前に、向こうから話を持ちかけてきてくれたことも含めて。

「僕はお前が嫌いだ、もう手を焼かせるな」

淡々とそんな言葉を返してきた露伴は、仗助が頭を上げた頃にはもう姿を消していた。閉じられているドアを眺めたまま立っていると、部屋の中から母親が声をかけてきた。 あんたそこで何してんの、と不思議そうな顔で問いかけられる。目を覚ました母親の記憶からは、露伴が訪ねてきたことすらも消えていた。
仗助は母親に笑顔を見せ、何でもない振りをして部屋に戻る。先ほどまでの数分間を、確かな現実として胸に留めながら。




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2009/10/13