感情の名前/後編





窓ガラスを手の甲で軽く叩くと、車内の露伴がこちらを見て驚いたような顔を見せた。 この状態で外に出ることは滅多にないので、おそらく露伴だけではなく他の人間でも同じ反応を示すだろう。
ドアを開けて中に入り、助手席に腰を下ろす。冷えた夜風の届かない車内は暖かく感じた。

「一瞬、誰かと思ったぞ」
「あんたから電話きたのが、風呂上がりだったもんで」
「そうか、それは悪かったな」

そう言いながらも、口調は平然としていた。申し訳なさは欠片も感じていないことがすぐに分かる。この男のやることなので今更、別に何とも思わないが。
今の仗助の髪型はいつものリーゼントではなく、肩あたりまで伸びている髪をそのまま下ろしている。外に出るつもりはなかったので、あとは寝るだけという状態だった。
風呂上がりに髪を乾かしていると、電話が鳴った。昼前まで会っていた露伴からで、とにかく今すぐに出てこいと言われ、Tシャツとジーンズに着替えて家を出てきたのだ。 自宅前まで車で来ていた露伴は、今もヘアバンドを付けていなかった。お互いに普段とは違う、肩の力が抜けたような緩い髪型だった。
どこに行くとも言われないまま、車が前進する。

「少しは元気出ましたか」
「僕が落ち込んでいたみたいな言い方だな」
「すっげえへこんでたでしょ、死んだ魚みてえな目で」
「知らないな、そんなことは」

この様子だと少し調子が戻ってきたようだ。夜までに何があったのかは分からないが、とりあえず安心だ。不安定な露伴を見ていると、こちらも調子が狂う。 気が合わない相手のことをここまで心配している自分が、よく分からない。どうでもいいとは思えなかったのが不思議でたまらなかった。

「ところで先生、朝に言ってたことの意味……気になるんスけど」
「何のことだ」
「ようやく分かった、って」

胸の奥に引っかかっていた疑問を口に出すと、運転をしている露伴の横顔に浮かぶ表情が固くなった。答えたくないことを聞かれたような様子だった。 無理に答えさせるつもりはなかったが、自分と関わったことで心の中で何かが動いたのなら、その方向が良くても悪くても気になる。
赤信号を前にして車が止まり、露伴が深く息をついた。

「分かったのは、僕が漫画に集中できなくなった理由だ」
「一体何だったんスか、それ」
「……お前が僕の周りをうろつかなくなった」

淡々とした調子でわけの分からないことを言われて、仗助は返す言葉が見つからずに固まってしまった。
冗談にしては酷いものだと思う。大手出版社の雑誌で、16歳の頃から漫画の連載を続けているプロが、男子高校生ひとりのせいで集中できなくなったと言われても。 毎日家に押しかけて邪魔しているならともかく、2週間以上は顔を合わせていなかったのだ。
会う度に罵り合うような関係の相手に対して、最近顔を出していなくてすみません、と謝るのもおかしな話だ。 この答えにどう対応すれば良いのか、誰か教えてほしい。

「暇人のくせに……どういうつもりなんだ、全く」
「ちょっ、待ってくださいよ! 何で俺のせいになるのか謎なんスけど!」
「謎も何も、全部お前のせいなのは明らかなんだ!」
「じゃあ、あんたは俺にどうしろと」
「知るか!」

懐かしさすら感じる、久し振りの激しい口論だった。露伴の言い分はめちゃくちゃで、大人を相手に会話しているとは思えない。
腹立たしい流れに少しうんざりしていると、まだ閉店していないデパートの駐車場に入った。端の空いている場所に車を停めた露伴は、ハンドルを握ったまま俯く。 この辺りは人の通りが少なく、空も薄暗くなってきているので落ち着いて話せるだろう。買い物もしないのに車を停めるのは申し訳ない気もするが。

「お前のせいだと、気付かなければ良かったのにな」
「気付かなかったら、ずっと漫画描けないままだったんじゃねえのか」
「……それは」

敬語を使うのも忘れて指摘すると、露伴はこちらに視線を向けたかと思えば再び目を逸らした。睨んでいるわけではなく、どこか戸惑っているような目だったのが気になる。 それを見て、今まで感じていた憤りが急に冷めていった。そしてようやく分かった。いつの間にか胸に抱え込んでいた、感情の正体が。

「こう見えても俺、純愛タイプなんスよね」
「いきなり何言ってるんだ、気味の悪い奴だな」

唐突に始めた語りに露伴は引いているが、ためらうことなく話を続けた。

「最近まで父親の顔を知らずに育ってきたことで、ガキの頃はずっと寂しい思いをしてきたから、これから好きになる子には絶対にそんな気持ちにはさせないって 決めてるんスよ。困ってる時には力を貸すし、寂しい時にはずっとそばに居てやりたいって」
「どうして僕に、そんな話をするんだ」
「さあ……俺の独り言だと思って、流してもらっても構いませんけど」

明らかに露伴に向けて話しておきながら、そう言って逃げ道を作ってしまった。素っ気ない答えが返ってくるのを恐れているのか、こんな臆病なやり方は自分らしくない。
恋愛に関する理想をここまで話したのは、露伴が初めてだった。よりにもよって、初対面の頃から気が合わないと思っていた相手。最近までは一生分かり合うことなどない と決めつけ、会えばどうせ喧嘩になるので必要以上に関わることを避けていた。そのはずが今ではこうして、ふたりきりで長く会話を続けて自分の恋愛論まで語っている。
きっと自分は、性格の歪んだこの男のことが気になっているのだ。向こうからは相変わらず嫌われているだろうが、今日はっきりと自覚してしまった。 触れた頬のなめらかさ、指に感じた震える息、こちらに向けられたまっすぐな視線。無意識だったとはいえ、あの時の行為を思い出すと恥ずかしさで逃げ出したくなる。
最初は気味が悪いと言っていた露伴だったが、仗助が語り始めるとそれまでの態度が嘘だったかのように真剣な表情で聞いていた。話を終えた後も馬鹿にしたりはせず、 まるで仗助の本音の奥深くまで探るような、鋭い視線を向けてきた。それは前にも見たことのある、何かに食らいついた時の目そのものだった。

「本当に、独り言だと思ってもいいのか?」
「いいって言ったでしょ……」
「こっち見ろよ」

身を乗り出してきた露伴が、目を逸らそうとした仗助の動きを遮るように触れてきた。普段通りに整えていない髪に、そして頬に。射抜くような視線からも指の感触からも 逃れられず、すっかり追い詰められてしまった。仕事で繊細な作業をこなすその手が、愛撫に近い意味深な仕草で肌の上を滑る。
生まれてきた熱い痺れが、露伴に伝わってしまいそうだ。気付かれないはずがない。

「独り言のわりには、人の顔をじろじろと……やっぱりお前はウソつきだな。ん?」

容赦なく言葉で責めながら、とんでもなく近い距離で見つめられた。完全に圧倒されて抵抗することもできない。動揺するこちらの反応を楽しんでいるかのように、露伴が 目を細めて低く笑った。語っている時は本心を悟られないようにしていたはずが、視線は終始露伴に向けていたせいで努力も空しく、全てお見通しだったらしい。
更に何かを言われる気がした時、自分の中で無意識に抑えていたものが弾けた。 露伴の耳を唇で軽く挟むと、跳ねた肩と共に銀色のイヤリングが小さく揺れる。

「俺がウソつきなのは、あんたも知ってるはずだぜ」

囁いた後に耳の形に沿って、ねっとりと焦らすように舌先を動かしていく。目を伏せた露伴の息がかすかに震え、シートの上で固く握りしめている手に更に力が入るのが見えた。
初めての行為に上手くできているかどうかの自信はなかった。しかしきっと、こういうことに学校の勉強のような正解などないのかもしれない。 ひたすら自分を信じるだけだ。
言うこととやることが違うウソつき。露伴の家が燃えた翌日、顔を合わせたバスの中で仗助はそう指摘された。そんなことは、言われるまでもなく分かっていた。 あんたとは2度と会いたくないと言った十数分後に、露伴が向かったトンネルへと自分も足を運んでいた。何だかんだで心配になって結局戻ってきたのだ。 嫌いだと言いながらも仗助をスタンドの力で救った露伴もウソつきで、お互い様だ。実は似た者同士なのではと思う。
堪えているような表情の露伴を翻弄したくなり、今度は首筋にくちづけをしてそこに強く吸いついた。痛い、と小さく呟く声が耳に届く。肩を押し返そうとする露伴の手を 握って制しながら顔を上げると、車の外を歩く家族連れの存在に気付いた。見られているわけでもないのに急に恥ずかしくなり、露伴を解放して身を離した。

「ははっ、すいません……何だか突っ走ってしまいまして」

気まずさを感じながらそう言うと、それまでは大人しかった露伴が再び鋭い視線を向けてきた。嫌な予感がする。

「何がすいませんだ、散々調子に乗りやがってこのスカタン!」

車内に響く怒声と共に、露伴の握りこぶしが勢いよく仗助の腹にめり込む。防御する余裕もなかったのでまともに食らってしまい、呻きながらシートの背もたれに倒れた。


***


「先生、元気になれたみたいで安心したよ」

放課後に立ち寄ったカフェで、康一が漫画雑誌を広げながら嬉しそうに言った。 露伴の漫画は次の号では無事に掲載され、内容のほうも康一いわくいつもの迫力が戻ってきたらしい。

「それにしても先週号ではどうしちゃったんだろうね、先生が連載休むなんて……まあ、この前の長期休載は別としてさ」
「そ、そうだな……」

まさか本人から聞いた先週の休載理由を話すわけにはいかず、仗助はごまかすようにすでに飲み終わったジュースの中身をストローですすった。 グラスの中は少し溶けた氷しか入っていないので、ずるずると耳障りな音がする。
この前会った時の別れ際は気まずい雰囲気だったが、再び仕事に集中できるようになったようなので安心した。 腹を殴ってきた時の、あの勢いなら立ち直れる予感はしていた。仗助が露伴を殴ったことはあったが、まさかその逆が……と思ったが今までの雰囲気を考えると、ありえない 話ではなかったのだ。露伴からはあれこれ根深い恨みを買っている立場なので、むしろ先日まで殴られなかったのが不思議なくらいだ。
そんなことを考えていると、康一と仗助の間に割って入るかのように何者かが現れた。

「ずいぶん楽しそうだな」
「露伴先生!」

康一は突然現れた露伴に驚き、開いていた雑誌を閉じて声を上げた。先日とは違い、露伴はヘアバンドでしっかりと前髪を上げており完全復活している。 こちらと一瞬だけ視線が合ったものの、すぐに康一のほうを向いてその肩に手を置くと、優しい声で康一の名前を呼ぶ。

「これから取材に付き合ってほしいんだ、ひとりじゃ心細くてさ」
「えー困りますよお、もうすぐ塾に行かなきゃいけないんですから」
「君はこのくそったれ馬鹿とは仲良くしてるくせに、親友の僕のことは見捨てるのかい」
「相変わらずわがままだなあ、先生ってば」

露伴の強引な誘いを振りきれず、康一は深いため息をついて立ち上がる。どこに行くかも分からない取材とやらに付き合う決意をしたようだ。いつもこんな感じで上手く 丸めこまれているのだろうか。これから予定があると言っている相手の都合などお構いなしな露伴は、本当に大人げない奴だ。
仗助君またね、と言い残す康一の小さな背中に手をまわして、露伴はその隣を歩き始める。完全無視を食らった上に置き去りにされた仗助は、テーブルに上半身を伏せた。
先日のことは全て夢だったような気がしてきた。耳を愛撫されて息を震わせ、されるがままになっていた露伴を思い出し、身体の奥がじわりと熱くなってしまう。 今日の態度からして、露伴はあの行為をなかったことにしたいのだろうと思った。犬猿の仲である相手に翻弄されて、屈辱だと感じているかもしれない。
外に停めている車内ではなく、完全な密室だとしたら恐ろしい。きっと我に返ることなく、激しく抵抗されるまで突っ走っていた。ろくにその手の経験もないくせに。
康一もいなくなってしまったので、そろそろ帰ろうと思うと頭に激痛が走った。まるで何かで叩かれたような感覚に驚いて顔を上げると、何故か露伴がひとりで目の前に 立っていた。片手にはスケッチブックを持っており、それで殴られたのだと分かった。
仗助を見下ろす表情は限りなく無愛想だ。

「あんた、康一と取材に行ったはずじゃ……」
「お前に言いたいことがあって戻ってきた」

そう言うと露伴は羽織っている上着のボタンを外し、前を開いた。そして指差した首筋には小さな痣があり、それは車内で仗助が唇で吸って付けたものだった。 誰かに付けるのは初めてだったが、まさかこんなに色濃く残っているとは思わなかった。

「この仕返しは、いずれしっかりとさせてもらうからな。仗助君?」

威圧的な、聞き慣れない呼ばれ方に恐怖を感じる。口元に笑みを刻む露伴からは康一が居た時には見せなかった暗黒のオーラが渦巻き、この男がいつまでも根に持つ厄介な性格だということを改めて 思い知った。




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2009/9/17