勇気の魔法





「あっ、猫だ!」

背後から突然上がった声に焦り、露伴は慌てて振り返る。すると視線の先では、小学生ふたりが野良猫を撫でて喜んでいた。
紛らわしい。そう思いながら再び歩き出す。実は少しだけ動揺していたのだ。外出する時はしっかり隠しているはずのものが、何かの拍子で人目に触れてしまうのではないかと。
用心のために、大きめの帽子を改めて深く被り直す。隠したいのは顔ではなく、あまりにも深刻すぎる別のものだ。しかもそろそろ夏が来るというのに、裾の長い上着を 羽織っていなければならない。暑苦しい、最悪だ。
新しい原稿用紙も買ってきたので、早く家に帰って仕事をしなくては。
途中で信号を渡り、角を曲がったところで誰かに後をつけられている気がした。こちらが早足になると、背後から追ってきている何者かも同じ速さで、微妙に距離を開けながらついてきている。苛立ちが頂点に達し、露伴は再び背後に顔を向けた。
そこにいたのは、知っている人物だった。東方仗助という、近所の小学生。背負っているランドセルとは釣り合っていない、昔の不良のようなリーゼント頭。この年齢の子供 にしては背は高いほうだが、まだ露伴には及ばない。
仗助はまるで、興味のあるおもちゃを見つけたかのように目を輝かせながらこちらを見つめている。

「何だよお前、まさかずっと僕を追いかけてきたのか?」
「なあなあ、露伴って猫なのか?」
「……はっ?」
「だって、しっぽが生えてるから」

無邪気な一言に絶句して尻の辺りを確認すると、黒く長い尻尾が上着をめくり上げて真上を向いていた。何だこれは、いつからこんな状態になっていたのか全く分からない。

「それって本物? さわってみてもいーい?」
「おいやめろ! 僕はお前のおもちゃじゃないんだ!」
「誰にも言わねーからさあ、さわらせてくれよー!」
「うるさいっ、帰れ!」

尻尾に伸びてくる、仗助の小さな手をかわしながら露伴は尻尾をズボンの中に戻そうとして必死になっていた。


***


もう2週間ほど前の話だ。自宅の庭に入り込んでいた1匹の黒猫を強引に外へ追い出してから夜が明けると、露伴の身体に異変が起きていた。尻の少し上辺りからは長い尻尾が、 そして頭にはどう見ても猫の耳にしか見えないものが生えていたのだ。
絶対にあの黒猫の呪いだ。何とかしたかったが良い方法が見つからず、帽子や服で隠しながら外出していた。 これは漫画家としては良い経験かもしれないが、人間としてはひたすら不便で邪魔で仕方がない。
しかも最近は魚の匂いに敏感に反応するようになり、気がつくと爪で壁や机を引っかいてしまっている。自分はいつか、完全に猫になるのではないかと不安が募るばかりだ。
自宅のリビングではソファに腰掛けた仗助が、口のまわりに生クリームをつけたまま美味そうにケーキを食べている。露伴の尻尾に興味を持った仗助がしつこかったので、結局 こうして家に連れてきてしまった。
露伴の描く連載漫画が掲載されている雑誌は少年向けで、小学生である仗助もメインの読者層に入っている。しかし仗助は露伴の漫画のほうには、一切興味を示さない。 テレビゲームには夢中になっているくせに、読んでもいないのに漫画を馬鹿にしてくるのが憎たらしい。10歳にも満たない子供を相手に、本気でそう思っていた。
仗助の向かい側に腰掛けると、足を組む。ケーキを食べ終えた仗助は満足したらしく腹をさすっている。

「ところでお前、家に帰らなくてもいいのか? もう夕飯の時間だろ」
「う、うん……そうなんだけどよお……」

突然気まずそうな顔をして、俯いた仗助はもじもじし始めた。

「学校行く前に、かーちゃんにすげえ怒られちまったんだ。隠してた算数のテストが、おれの部屋から出てきて」
「完全にお前の自業自得だな」
「じごう……って? むずかしくてよくわかんねえけど。だから、帰るのこわいんだよ」

子供らしい理由で本気で悩んでいる仗助を見ていると、普段の憎たらしさを忘れそうになる。確か仗助の母親は教師で、普段から躾には厳しいらしい。なので今も母親は 怒っていると思い怖がっているのだ。
仗助はとうとう膝を抱えて、小さくなってしまった。ため息をついた露伴は立ち上がり、仗助の隣に座る。家の中では猫の耳も尻尾も隠していないので、露伴の気配を感じて 顔を上げた仗助の視線がそれらに向けられているのを、しっかりと感じた。

「ずっと帰らないつもりか? 男なら腹括れよ」
「そう、だよなあ……」
「今日だけだぞ」
「えっ?」

こちらを見上げてくる仗助に顔を近づけ、露伴は頬にくちづけた。柔らかい感触と、わずかに残っている生クリームの甘い香り。やがて唇を離すと、仗助は真っ赤になって 何度も瞬きをしている。

「い、今の……なんで?」
「お前が勇気を出して家に帰れるように」
「もういっかい、だめ?」
「調子に乗るな」

甘えるように露伴にしがみついてきた仗助の肩を、素っ気なく押して拒んだ。


***


翌日、家を訪ねてきた仗助が露伴に差し出してきたのはキャットフードの缶だった。

「あれから露伴のおかげで、家に帰れたんだ! かーちゃん全然怒ってなくてさ。それで猫がよろこぶものって何だろって聞いてみたら、これで間違いないって!」
「そ、そうか……お前は僕が、本当にそれを喜んで食べると思っているのか?」
「だって、露伴は猫だから」

純粋な目でそう言う仗助に、露伴は口元を引きつらせた。やはりこいつは憎たらしいガキだ、と思いながら。




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2011/8/15