震える館/4 ジョセフから手渡された契約書の、給金に関する項目を見て露伴は目を疑った。 そこに書かれている金額は7桁。見間違いかと思い、何度数え直しても同じだ。ただの使用人が1ヶ月に貰う給金にしては高額すぎる。 『あ、もしかして足りなかった?』 『いえ、そんなことは。逆に多すぎるのではないかと』 『君が背負ってる借金の額を考えると、妥当だと思うけどね』 向かいのソファに座っているジョセフは、そう言って長い足を組み直した。 見た目は露伴と同じ年頃の青年だが、この病にかかるまでは79歳の老人だったらしい。 こうして話していると、ますます信じられなかった。 『休みが欲しいなら言ってくれればあげるし、服装も自由。何かあったら相談にも乗る』 他の仕事では有り得ないほどの待遇だ。 『真面目に仕事をしてくれるなら、口うるさいことは言わないよ。でも、ひとつだけ約束してほしいことがあるんだ。もしこれを破ったら、すぐにこの館から出て行ってもらう。その後で君がどうなっても俺は知らない……それでも、いい?』 『……分かりました』 露伴は息を飲むと、ジョセフが真剣な顔で告げてきた約束を心に刻んだ。何があっても忘れないように、最後まで守り通せるように。 もはや最短で目的を果たせる場所はここしかないのだから。 スケッチブックをめくると、館周辺の風景に混じって帽子を被った少年の絵で埋めつくされたページがある。先月まで雑誌で連載していた漫画の主人公だ。 新しい展開やキャラクターも考えていたが、それを発表できないまま酷い形で終わってしまった。未練がましいとは思いたくない。4年も描き続けたのだ。 全て自分で作り上げたキャラクターにも物語にも、それぞれ愛着があった。顔も名前も知らない、世界中のファンにそれを読んでもらえるのが喜びで、快感だった。そんな日々は突然崩れて、元に戻らなくなった。ただ、自分の理想通りに描きたかっただけなのに。 鉛筆で描いたキャラクターを、指で触れてなぞる。この手が、漫画の描き方を忘れてしまうのが恐ろしい。やはり漫画こそが、自身の血肉そのものなのだ。失っては生きていけない。 少しでも早く借金を完済して、また家を手に入れなくては。そう決意して露伴はスケッチブックを閉じた。 承太郎の部屋に夜食を運んだ後、すぐに出て行くつもりだった。しかしテーブルに積んであった本の中で興味深いものを見つけてしまったので、許可を取って少し読ませてもらった。 普通の本屋では売られていない、すでに絶版になっている古い本だった。夢中になって読んでいると、かなりの時間が経っていた。 まだ仕事が残っている。これ以上、人の部屋で読書をして過ごしている余裕はない。閉じた本をテーブルに戻すと、すぐそばでキーボードを打つ音が止まった。 顔はパソコンの画面に向けたままで、承太郎が話しかけてくる。 「もういいのか?」 「長居してしまってすみません、そろそろ仕事に戻ります」 「気に入ったなら貸してやろうか」 「いえ、いつ読み終えるか分からないので。来週にはアメリカに帰るんですよね?」 「ああ、でもまたここに戻ってくる。返すのはその時でいい」 何故ここまで本を貸したがるのかは分からないが、好意に甘えて借りることにした。海洋学者である承太郎は、仕事の関係で頻繁に日本とアメリカを行き来しているらしい。 そして向こうには、妻と娘がいる。実際に彼の左手の薬指を見て確認した。この人なら大丈夫だろうと思った。既婚者ならこうして一緒にいても、おかしな雰囲気になることはない。 「今度、海を見に行かねえか」 「えっ?」 「同じ海でも、朝と夜では雰囲気が全然違う。そういうところも面白いんだ。あんたにも見せてやりたい」 そこにはもう何年も足を運んでいないためか、心が揺れる。外出して、館に帰ってきた承太郎が連れてくる潮の香りが新鮮だった。訪れる時間によって違う表情を見せるという 景色を、スケッチブックに描くのもいいかもしれない。 想像を膨らませていると、承太郎はいつの間にかこちらに顔を向けていた。絶対に安全な相手だと分かっていても、ふたりきりの部屋で目が合うと何故か胸騒ぎがする。 こんな気持ちで行けば、絵を描くどころではなくなりそうだ。 「じじいの許可があれば、休みを貰えるんだろう?」 「それは……」 どうやら露伴を本気で誘っているようだ。純粋に海を見に行きたいという願望はあるが、どうしても素直に誘いに乗ることができない。 「誘ってくださって嬉しいです。でも、僕は行けません」 「理由を聞いてもいいか」 「これから仕事があるので、失礼します」 強引に会話を終わらせて、露伴は承太郎に背を向けて部屋を出た。失礼な奴だと思われただろうが、多分そのほうがいい。色々と悩まなくて済む。 借りる流れになった本を抱えて廊下を歩きながら、唇を噛んだ。 雇われた初日にジョセフと交わした約束。それは時々思い出すという生ぬるい次元の話ではなく、常に重要なものとして頭の中に置いていた。 『俺の血縁と、深い関係にならないこと。恋愛の意味で』 『大丈夫ですよ、僕は使用人ですし。向こうだってそんな……』 『そう? あいつら、俺に似て可愛くてかっこいいからなあ! 惚れちゃったりしてね』 約束を守らせたいのかそうでないのか微妙なことを言い、ジョセフは笑っていた。しかし目は本気だった。もし約束を破れば、容赦なく追い出してやると語っている。 その時は楽勝だと思ったが、最近は良くない展開が重なっていた。仗助や承太郎と必要以上に関わりすぎている。距離を保てなくなればそこで全てが終わってしまう。 |