ダメージ/2 「承太郎さん、どうしたんスか?」 急に顔を覗き込まれ、手にしていたカップの中身が少し揺れた。 「仗助お前、漫画には詳しいか」 「いや、おれ漫画って全然読まないんで」 「……そうか」 「力になれなくて、すみません」 苦笑いする仗助から、再び手元に視線を移す。オープンカフェでまだ温かいコーヒーを飲みながらも、頭に浮かぶのはあの青年のことばかりだ。そして緻密に描き込まれた漫画の原稿。 長い間アメリカで生活していたせいか、日本の漫画には疎い。学生の頃に比べて漫画自体読まなくなったこともあるが。 青年はもしかすると日本では有名な漫画家かもしれないと思い、仗助に話を振ったのだ。 町でぶつかり、少し会話をしただけで名前すら聞けないまま別れてしまった。今後また会える保証もなく、自分もそれほど長くは日本にいられない。忘れるべきなのだろうか。 「それでね、聞いてくださいよ。近所に住んでる露伴って野郎が、この前……」 身を乗り出して話しかけてくる仗助の話に集中しようとしても、上手くいかない。重症だ。 再会は、思っていたより早かった。しかし今回は青年ひとりではなく、彼のそばにはスーツ姿の中年男がいた。親子という感じでもないが、やけに距離が近いのが気になる。 夜の繁華街で、青年は中年男の隣で楽しそうに会話をしている。時折、肩や腕に触れながら。ふたりは向かい側からこちらへと歩いてくるが、とても声をかけられる状況ではなかった。 やがてすれ違う直前、青年のほうが承太郎に気付いたらしく顔色が変わった。中年男の腕から手を離し、凍りついた表情で凝視してくる。見られたくなかったようだ。 青年は立ち止まり、何かを言いたげに口を開いたが、中年男に強引に肩を抱かれながら去ってしまった。 あのふたりが親密な関係なら、今ここで割り込むのは野暮だろう。逆に、今を逃せばもう青年とは会えないかもしれないとも思った。 少し悩んだ末に、承太郎は青年と中年男が歩いて行った方向へと走り出した。 白い息を吐きながら、人波をかき分けていく。この辺りはあまり詳しくないので、どこに何があるか把握していない。ひたすら青年のことばかり考えながら走った。 この感情は何なのか説明できない。まさか既婚者の自分が名前も知らない男に恋をするなど、ありえない話だ。 降り続く雪の中、暗い空を見上げながら足を止める。とうとう青年を見つけることはできず、途方に暮れた。いつの間にか身体は冷え切り、ズボンのポケットに手を入れて身震いをする。 諦めて、引き返した方がいい。最初から縁はなかったのだと言い聞かせていれば、いずれ忘れられる。アメリカに帰れば、妻と娘が待っているのだから。 「そんなに疲れた顔をして、どこに行くんですか」 聞き覚えのある声が耳に届いて、承太郎は顔を上げた。シンプルな黒い看板の店の前に立ち、こちらを見ているひとりの青年。目が合った途端、何も言えなくなった。 先ほどまで一緒に歩いていた中年男の姿は、どこにも見えない。 「この前、ぼくとぶつかった人ですよね。覚えていますよ」 「……あんた、は」 「ここじゃ寒いし、どこかに入りますか」 何のためらいもなく、青年は承太郎の腕を掴んで周囲を見回す。こんなに近くにいても、まだ信じられない気分だった。 「それで、ぼくを追いかけてきたんですか?」 居酒屋のカウンター席で、隣に座っている青年がメニューを眺めながら問いかけてくる。 上着を脱いだ彼の服は、肌を露出した大胆なものだった。普通の男なら選ばないデザインだが、どこか中性的な雰囲気のおかげで違和感がない。 「声をかけたかったんだが、邪魔になりそうな気がしてな」 「ああ、そうか……そんなに親しそうに見えました? あの人はただのお客さんですよ」 「客?」 青年は薄く笑みを浮かべ、承太郎の耳元に唇を寄せてきた。彼の香りも近づく。 「ぼく、ゲイ向けの風俗店で働いてるんです。本番有りの」 衝撃的な言葉に耳を疑ったが、真顔の青年は嘘をついているようには見えない。思わず彼の全身を上から下まで眺めて、もう1度視線を合わせた。 愉快そうに目を細める青年は、承太郎の反応を楽しんでいるに違いない。 「そうか、おれはてっきり」 「何ですか?」 「あれを見て、プロの漫画家なのかと」 「……それを目指していた時期も、ありましたね」 急に声のトーンが下がり、青年はカウンターのほうに向き直る。やはり触れてはいけない内容だったのか。あの時と同じ失敗は繰り返したくなかったが、今度は青年が怒り出す様子はなかった。 「でも今の仕事、すごく楽しいんですよ。若いうちしかできない貴重な経験ですし」 店員が運んできた日本酒に口を付ける青年の横顔を眺めながら、複雑な気分になった。 別に青年の職業をとやかく言うつもりはないが、あれだけの才能を生かさないのはもったいないと思っている。 承太郎が見た途中の1ページだけでも、迫力と緊張感が伝わってきた。 斬新な擬音も人物の立ち姿も、全てが読む者を圧倒する。できれば最初のページから読んでみたい。 「もう2年くらい描いてないですね、そんな気にもならない」 「諦めたのか」 「まあ、そうですね」 「本当に、それでいいのか」 「しつこいな」 尖った口調で言うと、青年は承太郎の肩に頭を乗せる。こうして接近するたびにおかしくなりそうだった。もう酔ったのか、誘うようにしがみついてきた。 「おい、大丈夫か」 「わざとやってるんで」 賑やかな店内で、ここだけが別世界だった。青年の濡れた目に見つめられて、理性が強く揺さぶられる。上手く丸めこまれた気もするが、甘すぎる誘惑に負けてしまった。 |