ダメージ/2





「承太郎さん、どうしたんスか?」

急に顔を覗き込まれ、手にしていたカップの中身が少し揺れた。

「仗助お前、漫画には詳しいか」
「いや、おれ漫画って全然読まないんで」
「……そうか」
「力になれなくて、すみません」

苦笑いする仗助から、再び手元に視線を移す。オープンカフェでまだ温かいコーヒーを飲みながらも、頭に浮かぶのはあの青年のことばかりだ。そして緻密に描き込まれた漫画の原稿。
長い間アメリカで生活していたせいか、日本の漫画には疎い。学生の頃に比べて漫画自体読まなくなったこともあるが。
青年はもしかすると日本では有名な漫画家かもしれないと思い、仗助に話を振ったのだ。
町でぶつかり、少し会話をしただけで名前すら聞けないまま別れてしまった。今後また会える保証もなく、自分もそれほど長くは日本にいられない。忘れるべきなのだろうか。

「それでね、聞いてくださいよ。近所に住んでる露伴って野郎が、この前……」

身を乗り出して話しかけてくる仗助の話に集中しようとしても、上手くいかない。重症だ。


***


再会は、思っていたより早かった。しかし今回は青年ひとりではなく、彼のそばにはスーツ姿の中年男がいた。親子という感じでもないが、やけに距離が近いのが気になる。
夜の繁華街で、青年は中年男の隣で楽しそうに会話をしている。時折、肩や腕に触れながら。ふたりは向かい側からこちらへと歩いてくるが、とても声をかけられる状況ではなかった。
やがてすれ違う直前、青年のほうが承太郎に気付いたらしく顔色が変わった。中年男の腕から手を離し、凍りついた表情で凝視してくる。見られたくなかったようだ。 青年は立ち止まり、何かを言いたげに口を開いたが、中年男に強引に肩を抱かれながら去ってしまった。
あのふたりが親密な関係なら、今ここで割り込むのは野暮だろう。逆に、今を逃せばもう青年とは会えないかもしれないとも思った。
少し悩んだ末に、承太郎は青年と中年男が歩いて行った方向へと走り出した。
白い息を吐きながら、人波をかき分けていく。この辺りはあまり詳しくないので、どこに何があるか把握していない。ひたすら青年のことばかり考えながら走った。
この感情は何なのか説明できない。まさか既婚者の自分が名前も知らない男に恋をするなど、ありえない話だ。
降り続く雪の中、暗い空を見上げながら足を止める。とうとう青年を見つけることはできず、途方に暮れた。いつの間にか身体は冷え切り、ズボンのポケットに手を入れて身震いをする。 諦めて、引き返した方がいい。最初から縁はなかったのだと言い聞かせていれば、いずれ忘れられる。アメリカに帰れば、妻と娘が待っているのだから。

「そんなに疲れた顔をして、どこに行くんですか」

聞き覚えのある声が耳に届いて、承太郎は顔を上げた。シンプルな黒い看板の店の前に立ち、こちらを見ているひとりの青年。目が合った途端、何も言えなくなった。
先ほどまで一緒に歩いていた中年男の姿は、どこにも見えない。

「この前、ぼくとぶつかった人ですよね。覚えていますよ」
「……あんた、は」
「ここじゃ寒いし、どこかに入りますか」

何のためらいもなく、青年は承太郎の腕を掴んで周囲を見回す。こんなに近くにいても、まだ信じられない気分だった。


***


「それで、ぼくを追いかけてきたんですか?」

居酒屋のカウンター席で、隣に座っている青年がメニューを眺めながら問いかけてくる。
上着を脱いだ彼の服は、肌を露出した大胆なものだった。普通の男なら選ばないデザインだが、どこか中性的な雰囲気のおかげで違和感がない。

「声をかけたかったんだが、邪魔になりそうな気がしてな」
「ああ、そうか……そんなに親しそうに見えました? あの人はただのお客さんですよ」
「客?」

青年は薄く笑みを浮かべ、承太郎の耳元に唇を寄せてきた。彼の香りも近づく。

「ぼく、ゲイ向けの風俗店で働いてるんです。本番有りの」

衝撃的な言葉に耳を疑ったが、真顔の青年は嘘をついているようには見えない。思わず彼の全身を上から下まで眺めて、もう1度視線を合わせた。
愉快そうに目を細める青年は、承太郎の反応を楽しんでいるに違いない。

「そうか、おれはてっきり」
「何ですか?」
「あれを見て、プロの漫画家なのかと」
「……それを目指していた時期も、ありましたね」

急に声のトーンが下がり、青年はカウンターのほうに向き直る。やはり触れてはいけない内容だったのか。あの時と同じ失敗は繰り返したくなかったが、今度は青年が怒り出す様子はなかった。

「でも今の仕事、すごく楽しいんですよ。若いうちしかできない貴重な経験ですし」

店員が運んできた日本酒に口を付ける青年の横顔を眺めながら、複雑な気分になった。
別に青年の職業をとやかく言うつもりはないが、あれだけの才能を生かさないのはもったいないと思っている。 承太郎が見た途中の1ページだけでも、迫力と緊張感が伝わってきた。
斬新な擬音も人物の立ち姿も、全てが読む者を圧倒する。できれば最初のページから読んでみたい。

「もう2年くらい描いてないですね、そんな気にもならない」
「諦めたのか」
「まあ、そうですね」
「本当に、それでいいのか」
「しつこいな」

尖った口調で言うと、青年は承太郎の肩に頭を乗せる。こうして接近するたびにおかしくなりそうだった。もう酔ったのか、誘うようにしがみついてきた。

「おい、大丈夫か」
「わざとやってるんで」

賑やかな店内で、ここだけが別世界だった。青年の濡れた目に見つめられて、理性が強く揺さぶられる。上手く丸めこまれた気もするが、甘すぎる誘惑に負けてしまった。




3→

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2012/1/6