ダメージ/3 酒が入っていた勢いで、ぼくは客でもない男とセックスしてしまった。 それでも普段の仕事の癖で、手持ちのコンドームだけはしっかり着けさせていたようで安心した。店ではそれが絶対のルールになっているのだ。 「……承太郎さん」 ベッドの中で背を向けて眠っている男の肩を揺さぶりながら、控えめに呼びかける。ぼく達がお互いの名前を教え合ったのは、このホテルに着いて服を脱ぎ始めた頃だった。 コートを着ている状態でも予想していたが、思わず見惚れてしまうほど逞しい身体。肩にある星型の痣も印象的で、何もかもが今まで相手をしてきた客達とは違う。 こんな人もいたんだ、と感動してしまった。 同性を抱くのは初めてだったようで、最初のうちは慣れているぼくがリードしていく形になった。自分の身体の外も内側も、 どこをどうしたら感じるのかを口に出して教えているうちに、 ぼくは誰にも見せていなかった全てを晒している気分だった。 金が絡んでいないことで、特別な行為だと錯覚してしまいそうになる。いつもなら客と一緒にシャワーを浴びてからセックスをするのだが、 今回はそんな余裕はなかったので承太郎さんの匂いを直に感じながら抱かれた。不快になるどころか、更に興奮したぼくは積極的に彼を求めた。 結婚指輪の存在には、承太郎さんが精液の溜まったコンドームを外している最中に気付いた。 店に来る客の中にも既婚者はいる。不倫ではなく、あくまで金を払って遊んでいるだけなのだから問題はない。しかし仕事ではないこの状況では話は別なのだろうか。 何度か名前を呼ぶと、承太郎さんが小さく呻きながらこちらに顔を向けた。 「おはようございます」 「ん、ああ……」 「シャワー、先に使いますか?」 「おれは後でもいい」 「そうですか、じゃあお先に」 一緒に浴びませんか、と言いそびれたまま全裸でベッドを降りた。狭い部屋なので数歩先に浴室がある。冷えたドアノブに手をかけたと同時に、まだベッドにいる承太郎さん に名前を呼ばれた。 「できればまた、あんたの描いたものが見たい」 「……朝っぱらから、そんな話は聞きたくなかったですね」 「おれにはどうしても、今の仕事があんたに向いているとは思えねえ」 ぼくと過ごした一夜よりも、昔描いた漫画の1ページのほうがそんなに印象的だったのか。客相手に積み重ねてきた経験が、2年前に封印した過去に負けた。 それ以上は聞きたくなかったので、ぼくは何も答えずに浴室のドアを開けて中に入った。 自分が描いたものとはいえ、2年ぶりに向き合ってみると色々と思うことがある。このコマは今ならもっと違う角度から描く、この台詞は無駄な部分が多い、ここはキャラの 顔をアップにしたほうが雰囲気が出る。描いた当時は考えもしなかった修正すべき部分が、読み進めるたびに現れる。描き直してみたいという危険な欲望に身体が疼いた。 昔の原稿やスケッチブックは結局燃やしに行けずに、未だに手元にある。描き直したものを投稿すれば、今度こそ認めてもらえるかもしれない。しかしペンやインクは捨てて しまったので、今すぐには描けないことがぼくの心にブレーキをかけてくれる。 ぼくに風俗の仕事が向いていないと言ってきたのは承太郎さんと、幼い頃からの付き合いである鈴美だけだ。更にふたりとも、ぼくが再びペンを握って漫画を描くことを望んでいる。 もう、惑わされるのはたくさんだ。 耳を塞ぐ代わりに、広げていた原稿を再び紙袋の中にまとめて突っ込んだ。 仕事を終えて帰宅すると、マンションの階段前に誰かがいた。暗くて顔は見えないが、狭い階段を塞ぐように立っているので邪魔だ。 強引にどかせようとして近づいた途端にぼくは息を飲む。この男には見覚えがある。先月ぼくを指名してきた客だったが、店のルールに反した過激なプレイを要求してきて暴れた挙句、店長に顔写真を撮られて 出入り禁止になった奴だ。地味で大人しそうな外見からは想像できないほど、危ない性格をしている。 男が隠し持っていたナイフの刃が雄叫びと同時に、ぼくを狙う。咄嗟に身を引いてかわしたが、今度は横から来た。頬を少し切られたようで一瞬 怯んでしまった隙に、男はぼくの目の前まで迫ってくる。客商売をしている今、これ以上顔を傷付けられるのは都合が悪い。そう考えて反射的に顔を庇った右手に鋭い痛みが 走った瞬間、ぼくの中で何かが弾けた。 自分でも信じられないくらいの強烈な怒りが、理性を覆い尽くした。顔をやられた時には感じなかったものに完全に支配され、ぼくは我を忘れて男の股間に蹴りを入れる。 情けない声を上げながら地面に転がった男の腹に跨り、奪ったナイフを男の喉元を狙って振り下ろす。 あんたの描いたものが見たい、という承太郎さんの言葉がよみがえり、怒りでどす黒く染まったぼくの心を揺らした。 |