現実逃避/前編 「ぼく、あなたと行きたいところがあるんです」 「どこだ」 「温泉旅行」 オープンカフェでコーヒーカップを口に運ぼうとしていた承太郎さんの動きが止まる。 「承太郎さんが向こうに帰る前に、一緒に行きたいと思いまして」 温泉と言っても、狭くて安っぽい旅館は却下だ。彼と最高の思い出を作るなら、いくら金をかけても構わない。部屋に露天風呂がついているのがいい。湯上りに浴衣を着た承太郎さんを想像するととんでもなく色っぽくて、生で見たくなりそわそわしてしまう。 「……だめ、ですか」 何も言わないままコーヒーを飲む承太郎さんに不安を感じて問いかけると、彼は唇の端を少し上げて見せた。 「いや、いいぜ。いつにするんだ」 「本当ですか!? じゃあ、早速今週末にでも……あ、あの、ぼくがお誘いしたので宿泊代は全部ぼくが持ちます」 「それは良くねえ。おれはガキじゃあねえんだ、自分の分くらいは出させろ」 「ものすごく高い部屋、勝手に選ぶかもしれませんよ?」 「ああ」 ぼく達はそれぞれ仕事をしている大人だからこそ成り立つ話だ。承太郎さんの許可をもらったことだし、とびきりハイクラスな部屋を予約して忘れられないような一夜を過ごしたい。 「驚いたな」 「全部ぼくに任せるって言ったでしょう?」 「まあ、確かに」 案内された部屋の中を見まわした承太郎さんが、軽くため息をつく。この旅館で1部屋だけ存在する、ぼくの理想通りに露天風呂のついた特別室。大人数でも余裕なくらい広い和室の他にも、隣には眠るための部屋も用意されている。開かれた窓からは、かすかに川の流れる音が聴こえてくる。 宿泊代はふたり合わせて1泊で10万近くだが、承太郎さんは文句ひとつ言わなかった。いや、言わせなかった。いくらかかっても半分出すと約束したのだから。 杜王町から遠く離れた、豊かな自然に囲まれた旅館。ぼく達の関係も事情も知る人間はここにはいない。まるでこの世にいながらも、抱えている全ての現実を振り切れそうな場所だ。 もうすぐ迫る夜を思うと、意識せずにはいられない。畳も布団も、普段はあまり馴染みがなくて新鮮だ。計画を立てたのはぼく自身なのに、ふたりきりの夜をここで迎えることがどこか怖くなった。一生、忘れられない夜。 「……露伴、どうした」 近づいてきた承太郎さんとぼくの手の甲が触れ合い、どきっとした。そんな動揺を覚られないように慌てて首を左右に振ると、ぼくは承太郎さんから離れて荷物を部屋の隅に置いた。 山々の美しい景色を堪能できる露天風呂に浸かりながら、ふたりで他愛のない会話をした。途中で寄り添ったぼくの肩を抱いた承太郎さんは、唇に軽いキスをくれた。それだけで身体の中心が反応してしまいそうで、たまらない。 ここに承太郎さんと来られるのはもう、最初で最後かもしれない。過ぎていく1秒が限りなく積み重なるうちに、明日の朝になって再び杜王町という現実に帰るのだ。ぼく達はスタンド使いとして、やらなければならないことがまだ残っている。 部屋に運ばれてきた和食中心の料理は、文句のつけようがなかった。ここでしか味わえない旬の食材が贅沢に使われ、更に凝った盛り付けで目も舌も充分に満たしてくれる。 ちらりと見上げた承太郎さんの浴衣姿は、想像以上に似合っていた。渋い色の浴衣に包まれた逞しい身体。何度も抱かれているのに、今日は特別なものに感じる。 「いつかは、あなたと離れなきゃいけない」 料理はまだ残っていたが、ぼくは途中で箸を置いた。 「分かっているくせにぼくは自分で、傷を広げてしまったかもしれない」 「何を言ってるんだ」 「あなたとの思い出が欲しくてここに来たけど、よく考えてみれば別れる時を余計に辛くするだけだった。やっぱり……承太郎さんのこと、好きだから」 俯いていても、向かい側の承太郎さんが立ち上がってこちらに来たのが気配で分かった。 「風呂の時から様子がおかしいとは思っていたんだが」 「こんな、はずじゃあなかったのに」 強く抱き締められて、ずっと堪えていたものがあふれそうになる。承太郎さんはそのまましばらく何も言わず、彼の呼吸する音だけを聞きながらぼくは目を閉じた。 決して饒舌ではなく、どこか不器用なところも好きだ。口先だけの適当な言葉でぼくを慰めようとはせず、承太郎さんはこんなふうにストレートな行動で示してくることが多い。そんな彼の呟く言葉は短くても、ぼくの胸に重く響く。 「帰りたくねえのか」 「少しだけそう思ったけど、子供みたいなわがまま言っても仕方がない」 「言ってもいいんだぜ」 「結果は分かってるから……やめておきます」 それより隣の部屋に連れて行ってほしい。そう囁くと承太郎さんはまるで少女漫画のワンシーンのように、ぼくの身体を抱き上げる。どうあがいても時間は過ぎていくのだから、今しかできないことに夢中になりたかった。 |