保健室で逸脱/1





職員室で用を済ませ、仕事場である保健室に戻った露伴は早速白衣のボタンを開けた。
白衣の下に着ているのは引き締まった腹や腰を大胆に晒している、丈の短い薄手の服。
どう考えても、学校という空間にはふさわしくないものだ。それは分かっているが、 こういう趣味なのだから仕方がない。わざわざ脱がせて確かめるような奴もいない。
保健室を出る時だけは白衣のボタンを閉めるようにすれば、好きな服を着て仕事ができる。しかも私物のコーヒーメーカーを置いているので、いつでも飲みたい時にコーヒーが飲める。 この保健室は仕事場というより、すでにもうひとつの自分の部屋のようになっていた。騒がしく煙草臭い職員室に比べれば、ここは天国だ。
しかし今、強烈な違和感があった。淹れた覚えのないコーヒーの香りと、人の気配。誰かが先に、この保健室に侵入したのだ。
いい度胸だ、と露伴は思った。仮病を使ってベッドを占領しようとする生徒は今まで何人も存在したが、無断でこの保健室に入っただけでなく、露伴が持ち込んだ私物まで 勝手に使っている誰か。ここを気軽に訪れてくるほど仲の良い教師はいないので、犯人は生徒だ。きっちり説教した後で、担任に引き渡してやる。
露伴が仕事で使う机の前に座ってコーヒーを飲んでいる、その後ろ姿に近付いて肩を掴む。

「学年とクラスと名前、言えよ。頭下げて謝れば、許してやらないこともないぞ」

高校生にしては逞しい肩だと思った。それにこうして背中を向けている状態でも、他の生徒達とは違う雰囲気を感じる。凄みのあるオーラと言うべきだろうか。
椅子を半回転させてこちらを向いた生徒の顔を見て、露伴は息を飲んだ。自己紹介されなくても、この生徒のことは以前から知っていた。校内ではかなりの有名人だからだ。
2年の空条承太郎といえば、常に物騒な噂が絶えない問題児だ。彼の態度を改めさせようとしたらしい教師は、次の日から学校に来なくなった。
担任でも何でもない校医の露伴は、今まで関わることはなかった。登校してくるのは月に何度かという頻度の生徒と、まともに交流できるわけがない。
承太郎はマグカップから唇を離すと、椅子に座ったまま露伴を見上げてくる。

「美味いな、これ」
「当然だ、僕のお気に入りだからな」

高価で香りの良いブルーマウンテン。静かな保健室で、ひとりでこれを飲む時間が好きだ。しかし今日はそのペースを乱されて、露伴は苛立ち気味だった。

「ここは静かだな。うるさい連中も来ねえし、美味いコーヒーもある」
「お前、ここを喫茶店か何かと勘違いしてないか? 病人を休ませるための場所だ。それ飲んだらさっさと出て行け」
「やれやれ……噂通りだな、あんたは」
「噂? 何のことだ」
「本当の病気かどうかを一瞬で見極め、仮病の奴らを容赦なく追い出す。閻魔の岸辺」

初めて聞いた噂だ。しかも閻魔だとか、自分は一体生徒達からどういう印象を持たれているのか。まあ、これくらい厳しくいかなくてはこの保健室は仮病の連中がベッドを 占領する、無法地帯になってしまう。誤解を受けがちだが自分は、本当の病人に対しては出来る限りの面倒は見る。適当に薬を与えて放置などということはしない。
金を貰っている立場なら、誰が見ても文句を言われない仕事をするのは当然だ。特に自分は、快適な空間づくりのために数々の私物を持ち込んで、白衣の下に自由な服を 着ているという事実もあるのだから。別にそれを負い目に感じているわけではなく、かえって仕事を完璧にこなすためのやる気にも繋がっている。
未だにコーヒーを飲み終わる様子のない承太郎に、再び視線を向ける。会話どころか顔すら知らない頃は、血生臭い獣のような男を想像していたが、実際は少し違っていた。 瞳の色や顔立ちで、彼は純粋な日本人ではないと分かる。こうして近くで眺めていると、一部の女子に人気があるというのも納得できる気がした。
やがて空になったマグカップを机に置いた承太郎が、椅子から立ち上がった。おそらく露伴とは20センチ近くの身長差がある。今度はこちらが、彼を見上げる番だ。
承太郎は露伴の全身に視線を走らせた後、唐突に腰へと手を伸ばしてきた。先ほど白衣のボタンを開けたので、肌に直接その手が触れる。
驚いた露伴は、目を見開いたまま言葉を失った。

「……細え腰」
「このガキ、調子に乗りやがって!」

逆上した露伴は立場も忘れて承太郎に殴りかかったが、あっさりとかわされてしまった。
バランスを崩して倒れそうになった身体は、すぐにしっかりと支えられて難を逃れた。
かすかな煙草の匂い。逞しい胸元。ぞくぞくと熱い痺れが生まれてきたのが信じられず、慌てて承太郎を押し返す。

「本当の病人でもなければ仮病でもない。お前は丈夫そうだし、ここにに用はないだろう」
「俺は気に入ったぜ。この場所も、あんたも」
「もう来るな!」

平然と帽子を被り直し、露伴の怒声にも全く動じずに承太郎はこちらに背を向けて保健室を出て行った。これから授業に出るのだろうか、そういう感じには見えなかったが。
とんでもない奴と関わってしまった。これからやらなければならない仕事があるのに。このままでは落ち着かないので、自分もコーヒーを淹れて飲むことにする。 あの香りと味を思い出しながら袋を開けて愕然とした。中には一杯分の量すら残っていなかったのだ。
悔しさと怒りでどろどろになった気分に追い打ちをかけるように、窓の外では暗い色の雲が空を覆い始めていた。




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2011/7/7