Nowhere/1





爪先立ちをして承太郎さんの耳にくちづけをすると、とんでもなく珍しいものでも見るかのような目を向けられた。

「……何ですか、そんな目で見ないでください」
「いや、こういうのはあんたらしくねえな、と」

1階へと下がっていくエレベーターの中は僕達ふたりだけだ。そうでもなければ僕もさすがに、あんなことをする気にはなれない。
部屋でするよりもスリルがあるし、ちょっとした気まぐれだった。僕より経験値の高そうな承太郎さんなら、このくらいでは驚かないだろうと思いながらも。
彼に告白されてから数週間経つが、僕達はまだキスまでしかしていない。冗談のようで本当の話だ。 今日もさっきまで承太郎さんの部屋で過ごしていたが、ソファに座って話をしただけだ。手を握ったりもしていない。以前と一体どこが変わったんだ?
もしかするとそれ以上の関係は望まれていないのかもしれない。妻子ある身で、しかも男に手を出したとなれば面倒な事態になりかねない。全てが解決してアメリカに帰る までの遊び相手として僕を選んだのだろうか。そこまでは想像したくないが、絶対に有り得ないとも言いきれなかった。
こう見えても僕なりに色々と悩みもしたのに、軽い存在に思われているのなら失礼な話だ。ちょっと刺激を与えてやる機会を待っていたところだった。
エレベーターのドアが開き、ふたりだけの時間は終わった。結局進展もなかった上に僕らしくないとまで言われたが、今日はこれくらいにしておこう。
見送りありがとうございました、と言うと僕は軽く頭を下げて外に出た。僕に視線を向けたまま、何も言わない承太郎さんを乗せたエレベーターの厚いドアが閉まる。
……本当にリアクションの薄い人だな。


***


その日の夜に承太郎さんから電話が来て、連れて行かれたのはあの居酒屋だった。
前と違うのはここが個室で、他の客とは完全に仕切られていることだ。すでにいくつか料理が運ばれてきているが、何故だか妙に落ち着かない。
まさか1日に2回も会うことになるとは思わなかった。しかも前に来た時は酔った僕に絡まれて散々な目に遭っているくせに、また懲りていないのかこの人は。
また醜態を晒すわけにはいかないので、僕は酒は飲まずに2杯目のウーロン茶に口をつける。子供扱いされても構わない。 酔うと何を言い出すか、自分でも分からないから恐ろしい。このどこか不安定な気持ちの状態では尚更だ。

「突然誘って、悪かったな」
「あなたのそういうところには、もう慣れましたから」
「急にあんたの顔が見たくなった」

何気ない調子でそう言われた途端、僕は箸でつまんでいた唐揚げをテーブルの上に落としてしまった。動揺したのが見え見えだ、まずい。

「僕の顔なら、昼間に見たじゃないですか」
「それとは違うな、まあ俺にもよく分からん」

エレベーターの中で僕が承太郎さんにしたことは、全くの無駄にはならなかったらしい。他にきっかけがあったのかもしれないが、僕が知っている限りでは、別れ際までは 特別な行為はしていないはずだ。
向かい側に座っている承太郎さんは、顔色ひとつ変えずに酒を飲んでいる。少し飲んだだけで正気を失い、余計な発言をする僕とは全然違う。
あまり容易く手の内は晒したくない。仕事の愚痴ならともかく、口には出したくない気持ちまで知られるのは勘弁だ。 彼がアメリカに帰る時は、ちゃんと見送りができるくらいの余裕は残したい。
個室に入ってきた店員が、僕が先ほど頼んだ水を運んできたのでそれを一気に飲み干す。しかし冷たい水で冷静になるどころか、おかしな気分になった。何だか熱い気がする。

「それは俺が頼んだ酒だ……」

承太郎さんは今更、そんな大事なことを呟いた。何でもっと早く言わないんだこの人でなし。中身が透明だから間違えたんだよ悪かったな。あんたの酒を横取りした わけじゃないぞ。
僕を酔わせてどうするつもりなんだ。しかもこれ、結構強いやつじゃないのか。あんたにとっては水みたいなものだろうけどな。

「ちょっと、あの、聞きたいんですけど」
「ああ」
「僕を抱く気はないんですか? そうか、僕相手じゃ勃たないんですね分かりますよ同じ男ですしね」
「おい、何を勝手に……」
「子供じゃないんですよ、僕は。大人の付き合いがどんなものか、ちゃんと想像できますし覚悟だってしています。できれば最初は、あなたに教えてもらいたい……」

頭がくらくらして、僕は後ろの壁に背を預けた。身体が熱くて耐えきれず、シャツのボタンを外していく。指先が思い通りに動かなくてもどかしい。
深く息をつくと、承太郎さんの気配が近くなった。どきどきするような匂い。服の上から触れても感じる逞しい胸に頬を寄せる。硬い壁よりこっちのほうがいい。

「……あなたが好きです。このままひとりで帰りたくない」

耳元でかすかに、息を飲む音が聞こえた。ここが居酒屋の個室だということも忘れて、僕は承太郎さんにしがみつく。
もはやどちらのものかも分からない胸の鼓動がうるさいせいで、正気には戻れない。




2→

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2011/3/31