Nowhere/2 目を開けると、すぐそばで承太郎さんが眠っていた。 慌てて身体を起こして冷静になると、自分が今居るのは承太郎さんの部屋で、しかも彼のベッドの上だと分かった。こんな状況が前にもあった。気のせいなんかじゃない。 あの居酒屋で水と間違えて酒を一気飲みするという間違いを犯して、いつもなら絶対に言わないことを次々に口に出してしまった。 できれば承太郎さんには全て忘れてもらいたいが、あんな恥ずかしい出来事を僕ひとりだけ覚えているのも苦痛だ。結局このままでいるしかない。 承太郎さんにしがみついてからの記憶は飛んでいる。あの後からこの部屋に運ばれるまで、僕は一体どうしていたのだろう。頭から取れかけているヘアバンドと、自分で 外したシャツのボタン以外は、乱れているところはない。 いつもそうやって寝ているのかもしれないが、同じベッドで寝ている承太郎さんが上半身に何も身に着けていないので、 僕と彼はこのベッドの上で何かあったのかもと動揺したのだ。 「……起きたのか」 寝起きの掠れた声で、承太郎さんが僕に声をかけてきた。それが少し色っぽいとか思っている場合じゃない。 僕は迷っていた。彼に直接、あの後どうなったか聞いてみるか、それとも手っ取り早くスタンドで記憶を読んでしまおうか。今なら隙だらけだ。 スタンドを発動させようとした途端、急に腕を掴まれた。声を上げる間もなく僕は承太郎さんの胸に顔を寄せて、彼に密着した状態になる。昨日の夜よりも、ずっと体温が 伝わってきて胸の奥が苦しい。抱かれた勢いで、うっかりその素肌に触れていた指が震える。 「あんたに手は出してねえ、心配するな」 「えっ……」 「寝てる奴をどうにかするほど、飢えてねえよ」 その言葉を聞いて僕は、一瞬でも疑ってしまった自分が恥ずかしくなる。酔い潰れて寝てしまった僕を部屋まで運んでくれて、感謝しなくてはならない相手なのに。 「だが酔っているとはいえ、あそこまで俺を欲しがるあんたを見ていたら、あのまま食っちまいそうになった」 実はそれが本音だ、と付け加えた承太郎さんに更に強く抱き締められた。 彼が思い留まってくれて良かった。食われてみたい願望はあるが、それは僕が正気でいる時にしてほしい。何もかも、しっかりと記憶に刻みつけておきたいからだ。 許されぬ道に踏み込んだ事実ごと、全て。 朝方まで仕事をしていたのでもう少し眠りたいという承太郎さんと部屋で別れて、僕はエレベーターに乗った。 前にも酔った僕を部屋に運んでくれた時はソファで寝たらしいが、今日は僕と同じベッドに居た。しかも上半身裸で。あれで驚くなと言われても無理だ。 ベッドの中で抱き締められた後、どうなってもおかしくない雰囲気だった。結局は僕の空振りで終わってしまったが。 こうして離れた今でも、承太郎さんの温もりが消えない。家に帰って、原稿の続きをしなくてはいけないのに。 エレベーターからロビーに出ると、杖をついた老人が僕を見て軽く手を上げる。すでに見慣れた顔だ。 「ジョースターさん、おはようございます」 「露伴君、どうしたんじゃ? こんなに朝早くから」 ジョースターさんは首を傾げながら、僕に問いかけてくる。朝の7時過ぎにエレベーターを降りてホテルを出ようとしている僕は、不思議に思われても仕方がない。 誰かを訪ねた帰りにしては、あまりにも早すぎる時間だ。 答えに困った僕を見て、ジョースターさんはまるで何かを悟ったような調子でにやにやと笑っている。鋭すぎる、恐ろしい。 「ちょっと立ち寄っただけですよ、それでは僕はこれで」 これ以上突っ込まれないうちに立ち去ろうとすると、ジョースターさんは急に呻き声を上げて床に膝をついた。 「どうしたんですか!?」 「こ、腰が痛くて立ってられん……露伴君に部屋まで付き添ってもらって、優しく介抱してもらわんと、わしは腰痛で死んでしまう」 腰痛で死んだ人間なんて聞いたことがない。しかも願望が具体的すぎる。 多少の不自然さは感じながらも、ここで見捨てて帰るわけにはいかない。ジャンケン小僧との戦いで、ジョースターさんには世話になっている。もし透明の赤ん坊があの場所 に来ていなければ、僕は最後のジャンケンに負けてスタンドを完全に奪われていた。 とりあえずジョースターさんを支えながらエレベーターに乗り、部屋まで送り届けた。しかしドアを開けて中に入ると、それまでは腰が痛くて呻いていたジョースターさんが 急に元気になり、僕の支え無しで歩いてベッドに潜り込んだ。余裕たっぷりに帽子と上着を脱いでから。 信じられないほどの変わりように呆然としている僕に、ジョースターさんが手招きをする。いつも飲んでいるらしい薬と水を持ってきてほしいと頼まれ、僕は何故か流される ままに従った。 「もしかして、承太郎の部屋から朝帰りかの?」 何の前置きもなくストレートに言われ、僕は言葉に詰まった。この人は全部知っているような気がしてならない。単に隣の部屋だからというだけではなく、 もっと違う……人間離れした勘、というべきか。上手く説明できないが。 「まあ、あいつと仲良くしてやってくれと頼んだのはわしじゃからな。君を責めたりはせんよ」 すでに僕とあの人は多分、ジョースターさんが最初に考えていたような『仲良く』の度を通り越している。少々の後ろめたさはあるが、もう後戻りはできない。 ジョースターさんが、黙ったままの僕の頭を優しく撫でた。まるで小さな子供相手にそうするように。 そんな時、部屋のドアが何度かノックされた。その音で僕は我に返る。 「悪いが、わしの代わりに出てくれんかのう」 またジョースターさんの言うとおりにしてしまったと苦い気持ちで立ち上がり、ドアを開ける。そして向こう側に立っている人物と目が合った途端に、僕は凍りついた。 「……何であんたが、じじいの部屋に」 先ほど別れたばかりの承太郎さんが、僕を見下ろしながら呟く。やましいことは一切していないが、気まずい。 「いえ、これはただ、ジョースターさんがロビーで腰を」 「今、露伴君といいところじゃったのに。気の利かん奴じゃな」 背後ではジョースターさんが、やけに楽しそうな口調でとんでもない発言をする。承太郎さんは眉根を寄せて、明らかに不愉快そうな表情になった。 「いつもの朝飯の時間に迎えに来たんだろうが、何が悪い」 「ああ、そうじゃったのう。歳のせいか物忘れが酷くてな」 絶対嘘だ。まさかわざとこうなるように仕組んだんじゃないだろうな。この刺々しい空気、僕だけではどうにもならないぞ。 「ジョースターさんとは、何もありませんから」 「あってたまるか」 下がっていくエレベーターで僕と承太郎さんは、微妙な距離を取って会話をする。 あれからジョースターさん自身が、事情を知らない承太郎さんをからかっただけだと種明かしをした。それで全部解決したように見えたが、腕組みをしながら壁に背を預けて いる承太郎さんは未だに機嫌が悪い。ふたりきりの狭い箱の中、流れる沈黙の重苦しさは半端じゃない。 「あの時、嫉妬してました?」 「……何の話だ」 「僕とジョースターさんが、本当にやましい関係だとしたら」 最後まで言い終わらないうちに、承太郎さんが僕の肩を掴む。振り返った瞬間、唇を奪われた。今まで経験したことのない、強引で深いキスだった。もうすぐ1階に着いて ドアが開くのに、ためらう気配もない。 「聞きたくねえな、そんなくだらねえ例え話は」 キスの余韻も薄れないうちに低い声で囁かれ、僕は気が遠くなる。開いたドアからロビーに出るだけで精一杯だった。 |