Nowhere/3





承太郎さんの希望で一緒に水族館に行った後、立ち寄ったオープンカフェで飲み物を注文する。これが男女なら完璧にデートコースだ。 僕達は男同士で、何も知らない周囲から見ればまさか不倫の関係だとは思わないだろう。
原稿が一段落ついて少し時間に余裕ができた僕は承太郎さんに電話をかけて、どこかに行きませんかと誘ってみたのだ。自分からこういう電話をするのは初めてだったので、 僕らしくもなく緊張していた。今まではずっと誘われるままついて行っていたが、たまには逆のパターンも悪くない。
水族館から出る前、承太郎さんは土産物のコーナーで小さなイルカのぬいぐるみを買っていた。いくら海洋学者とはいえ趣味が可愛すぎじゃないかと驚いたが、レジの店員に プレゼント用に包んでくれと頼んでいるのを聞いて、ようやく納得した。言われなくても何となく分かる、あれは娘さんへの贈り物だ。
なるべく考えないように、気にしないようにしてきた。それでも、どうしてもだめな時がある。僕の中で音もなく、決意が大きく揺らぐ時が。
ここまで来て、まだ迷っているのだろうか。キスまでしておいて、それでもまだ身体は繋いでいないから引き返せるとか、そんな愚かなことを。今更。
運ばれてきたコーヒーの味が、よく分からない。ミルクを入れて味を変えてみても、ただの温かい液体として僕の喉を通りすぎていくだけだ。

「先生」
「……っ、はい」
「酒のほうが良かったか」

向かい側に座る承太郎さんが急に意味不明な発言をするので、僕は口を薄く開いたまま顔を上げた。冗談を言っているとは思えない真顔で、こちらを見ている。

「意味が、分かりませんけど」
「あんたは酒が入っている時のほうが、正直みてえだからな」
「迷惑をかけているだけです。もうあなたとは飲みに行く気は……」
「暗い顔で黙り込まれているよりは、ずっとマシだ」

そう言って承太郎さんは、僕より先にコーヒーを飲み終えると再び視線を合わせてきた。美しい緑色の瞳から、目を逸らせない。周囲のざわめきが遠くなる。

「この後、もう少し付き合え」


***


海の見える公園は静かで、僕達以外に人の気配はない。
僕をここに連れてきた承太郎さんは、口を開かないまま僕の隣を歩き続ける。しかし不思議と、さっきよりも気持ちが落ち着いていた。

「そういえば僕、まだ言ってませんでしたよね。あなたを好きになったきっかけ」

最初の頃は、これだけは言えないと思っていた。信じてもらえないだろうし、僕のほうも口に出すのはかなり恥ずかしい。それでも承太郎さんに、僕のことをもっと知って ほしいと思った。引かれてしまう覚悟はできている。
歩みを止めた承太郎さんの隣で僕は息を吸いこんで、それをゆっくりと吐き出しながら勇気を振り絞った。

「あなたと初めて居酒屋に行った後、家に帰ってから夢を見たんです」
「……どんな」
「場所は分からないけど、承太郎さんに抱かれている夢」

とうとう言ってしまった。そして反応を待たずに僕は更に話を続ける。

「それからしばらくの間、あなたと会うのが恥ずかしかった。すごい意識してしまって、抑えられませんでした。顔を見て、ちゃんと話ができるかどうか不安で」

承太郎さんは僕が話している間、一切口を挟まなかった。僕を馬鹿にしたり、罵ったりすることもない。

「でもあなたが、僕の漫画の感想を言ってくれて、そのまま語り合っているうちに楽しくなったんです。承太郎さんと漫画の話ができるのが、すごく嬉しかった。 意識してるのはどうせ僕だけだろうし、せめて友達として付き合っていきたいと思っていた。あなたに告白されるまでは」

あの時のことは、今でもよく覚えている。俺はあんたに惚れているかもしれねえ、と告げられた僕は動揺して、言葉を失った。この人は妻子ある身で、一体何を言っているのかと。

「あなたの言葉も何もかも、全部が真剣だったから。奥さんや娘さんが居ると知っていても、僕は承太郎さんに愛されたいと思った」

単に漫画の件で語り合えたのがきっかけだと言えば、恥ずかしい気持ちになることはなかった。全てを馬鹿正直に語るのは賢くないと分かっている。
これは賭けだった。僕がどういう人間で、何を考えているのか晒した上で嫌われてしまったら、承太郎さんとはもうそれまでだと。
居酒屋で酔った時に告げた数々の言葉は、全部本当のことだ。僕はこの歳になってもまだ、誰にも抱かれたことはないし抱いたこともない。知識はあるが、伴う痛みも快感も 身体では感じた経験がない。だから最初は、承太郎さんに教えてもらいたい。
この気持ちごと、一生忘れられない強さで奪ってほしい。

「俺はあんたを、誤解していたようだ」

沈黙の末に承太郎さんの口から出た一言に、僕の心臓が冷えた。やはり呆れられたのか。
いやらしい夢がきっかけで人を好きになるような奴は、手に負えないと。

「酔っている時よりも、素面で言われたほうがグッとくるな」
「え……」
「このままあんたを、家には帰さねえ」

空を染める夕焼けは、まるで燃えるような色をしていた。
それはやがて町一面を闇で覆い尽くす、夜になる。




4→

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2011/4/4