Survivor/1 人のものを奪い取るという行為に対して罪悪感を抱くどころか、まるでそれを何でもないことのように振る舞う僕はすでに歪んでいるのだろうか。 最初に生まれた戸惑いはいつの間にか薄れていき、やがて快感に変わっていった。 あの人は紙切れ1枚で関係が成り立った相手よりも、一緒に居る時だけはこの僕を優先しているのだと思うと、震えるほどの優越感で満たされていくのだ。 もう後戻りはできない。多分、一生続くような確かな関係ではない上に誰からも理解されない。それでも僕は、あの人に求められた時の甘い疼きに流されて、面倒なことは 全て忘れてしまう。 僕はいつか死んだら天国には行けないだろうが、あの人と一緒の時間こそが至上の天国なので、先のことはどうでも良かった。 「引き返すなら今のうちだぞ、先生」 その頬に手を伸ばした途端、静かな口調でそう問われた。 「今更引き返すくらいなら、最初からあなたにここまで執着していませんよ。そう思いませんか、承太郎さん」 僕が言うと、承太郎さんの目の力が強まる。まるでこちらを絡め取り、逃げることを許さない。そんな強さを感じた。このまま身を任せてしまいたいと思う、心ごと何もかも。 身を乗り出し、隣に座っている承太郎さんにくちづけた。ソファがきしむ音に、戻れない道に踏み込んだこの現実を思い知らされる。 僕よりひとまわりは大きいその手に、長い指に触れる。左手の薬指で鈍く光っているものを覆い隠すように。 くちづけが更に深くなる。僕を抱き締める腕、ずっと近くなった煙草の匂い。そして今まで知らなかった執拗な舌の動き。まともに呼吸ができないほど、深い場所まで溺れて いくのを、僕はとろけきった脳内で感じていた。 全ての始まりは、朝から雨が降り続いていた数週間前のことだった。 僕は買い物のために駅の近くまで来ていた。仕事でかなり疲れていたので、用心のために車やバイクは使わずに徒歩でここまで来た。運転の途中で眠気が襲ってきたらシャレにならないからだ。 まだ描き足りていない。誰かをはねて捕まるのも、自分が死ぬのもごめんだ。 20年しか生きていないのだ、せめて悔いを残さずに逝きたい。そう思うのは人間として、ごく当たり前の望みだと思う。 傘をさして歩いていると、前方から普通ではない雰囲気を纏った男が歩いてくるのが見えた。この雨の中でも傘をささずに、目線を下に落としながら。 僕は彼の名前と顔を知っている程度で、あまり言葉を交わしたことはない。 白い帽子やコートは雨水を吸い込み、少しだけ暗い色に変わっていた。 彼はまだ、僕の存在に気付いていないようだ。目が合ったとしても、声をかけてはいけないような気にさせる。それほど人を近付かせない、独特の空気を感じた。 傘をさしたままその場を動かない僕のそばまで、彼がたどりついた。 「……傘、忘れたんですか。承太郎さん」 僕は傘の下から、大柄な彼を見上げる。こんなに降っているのだから、少しは慌てて走ったりするのが普通だと思うが、承太郎さんはまるで雨が降っていることなど気にして いないような様子だった。 「海に行っていたんだが、まさか降るとは思っていなくてな。やれやれだぜ」 「今日は朝から、ずっと雨でしたよ」 「俺がホテルを出た時は、まだ降っていなかった」 一体この人はいつから海に居たのだろうか。そんなに朝早くから、昼過ぎの今までずっとひとりで、しかもこんな雨の中で。途中どこかで雨宿りしていたとしても、そして いくら海洋学者だからと言っても、相当な変わり者だ。しかし自分の好きなことや、興味のあることに時間を忘れてのめりこんでしまう気持ちは、理解できなくもない。 そう思いながら承太郎さんの顔を改めて見ると、その目はどこかぼんやりしていた。口調や受け答えはしっかりとしていたので、今までは気付かなかった。 あまり深く考えずに、承太郎さんの額に触れた。するとそこからは、雨の冷たさを忘れるほどの熱さを感じた。何時間も雨に打たれていたのかもしれない。 僕は驚いて手を離す。 「すごい熱じゃないですか、自分でも分かるでしょう? ここからホテルまで歩いて帰るつもりだったんですか」 「これくらいの熱、大したことじゃねえ」 僕が先ほど感じた熱さは、これくらいの一言で済むようなものではなかった。このままひとりにしておくのは良くない予感がする。ホテルにちゃんとたどり着けるかどうかも気になった。 ちょうど近くまで走ってきたタクシーを捕まえて、承太郎さんを車内に強引に押しこんで僕も後から乗った。運転手にグランドホテルまで行くように告げると、すぐに タクシーが走り出す。 「おい先生、一体どういうつもりだ」 隣からは承太郎さんが、険しい表情を向けてくる。彼にとっては大きなお世話だったに違いない。車内の後部座席が気まずい空気に包まれた。正直なところ、僕自身も今まで あまり会話をしたことのなかった相手にここまで世話を焼くなんて、想像すらしていなかった。 「僕にもよく分からないので、訊かないでください」 「……何だ、それは」 承太郎さんが、呆れたようにため息をついた。僕はそれに気付かない振りをしながら、窓の外を流れていく景色を眺め続けた。 この雨は当分、止みそうにない。 着いたホテルのフロントで薬を貰った後、僕は少し歩き方がふらつき気味になっている承太郎さんを支えながらエレベーターに乗り、部屋に向かった。 彼は僕よりも遥かに体格が良いので、何とか動けている今ならまだしも急に倒れたりすれば支えきれないかもしれない。それでも多分、誰もそばについていないよりはいくらか マシだと思う。 部屋に入ると、雨に濡れた服を脱がせた承太郎さんの身体をタオルで拭いた。逞しい身体のところどころには傷跡がある。古そうなものから最近ついたようなものまで、大きさも様々だ。 彼が修羅場を乗り越えてきた、生々しい証。記憶を読まなくても、それらの激しさが伝わってくる。ジョースター家の血統は、平穏な人生を送ることができないようだ。 その痣が示す通り、そういった星の下に生まれてきたのかもしれない。 まさしく因縁の星だ。逃れられない宿命の。 着替えた後、水と共に薬を飲みこむ承太郎さんの喉がかすかに動くのを無意識に眺めていると、目が合ったのですぐに逸らす。何となく気まずかった。 彼は不思議な人だ。言葉では表せない魅力を感じる。口数は決して多くない。考えていることが分かりにくいところは確かにあるが、そんなところすら色気があると思わせる。 男相手に、僕は何を考えているのだろう。これではまるで、承太郎さんに惚れているみたいだ。今までまともに関わったことすらなかったのに、本当にどうかしている。 洗面所で濡らしてきたタオルをベッドで寝ている承太郎さんの額に乗せると、僕はようやく一息ついた。ベッドのそばにあった椅子に腰掛け、寝顔を見つめる。 今日、家を出た時にはまさかこんな展開になるとは思っていなかった。僕のスタンドでも、自分の未来は読めないのだ。 今までは必要以上に他人と関わろうとはしなかったので、こんなに人の世話を焼いたのは僕にしては珍しい。 しかしこれは、ただの気まぐれだ。僕はそれほど世話好きな人間じゃない。多分、この行為に特に深い意味はない。 飲んだ薬が効いているのか、承太郎さんはようやく落ち着いて眠れているようだ。後は隣の部屋のジョースターさんにこのことを伝えて、僕はそろそろ帰ろう。 そう思いながら椅子から立ち上がると、布団の中から腕が伸びてきて僕の手首を掴む。薄く開いている承太郎さんの目が、こちらに向けられている。そして唇が動いた。 「もう少しだけ、ここに居てくれねえか」 僕が帰ろうとしたのを、雰囲気で感じ取ったようだ。もしそうだとしても、すぐ近くに居る血縁の人間に世話をしてもらったほうがいいんじゃないのか。 今まで関わりの薄かった僕が、彼にできることは思い当たらない。消したい記憶があるとか、そういう類の頼みがあるなら話は別だが、今の状況でそれはないと思う。 額に乗せたタオルをまた濡らしてくるくらいなら、誰にでもできるはずだ。よく分からない人だ。 そんな考えとは別に、普段は落ち着いた大人の男であるはずの彼が、まるですがるように僕に腕を伸ばしてきたのが意外というか、隠されていた一面を見てしまった気がした。 「あと、少しだけなら」 そう言ったものの、僕の声は再び目を閉じた承太郎さんには届いているだろうか。僕の手首を掴んでいた大きな手は、力を失い静かに滑り落ちていった。それはどこか、僕の答えに 満たされたようにも見えた。 窓の外に視線を動かすと、雨はいつの間にか止んでいた。 |