既婚者と恋なんかしたくない。相手が男だろうが女だろうが、向こうが離婚しない限りは永遠に自分のものにはならないのだから。
 フィクションの世界では略奪愛や三角関係、酷いものになると許されない恋だのとずいぶん綺麗事みたいに描かれていることが多い。そういうのは不倫をしている自分に酔って いるだけで、ひたすら面倒なだけだ。ぼくは自分の境遇に酔って楽しむ趣味はないし、それほど暇人でもないのだ。
 不倫どころか、まともな恋愛にすら縁の遠いぼくにとって今最も重要なのは漫画だ。世界中にいる読者がこれからもぼくの漫画を読み続けてくれるように、面白い作品を 生み出していかなければならない。だから常に忙しい。厄介な相手にはまりこんで苦しんだり泣いたり怒ったり、そんな余裕は……と、ここまで考えて何となく引っかかった。
 そういう面倒な状態やみっともない感情も、これからの創作活動に役立つのではないかと思った。だとしたら相手は誰だ、年上の人妻なんて結構グッとくるものがあるが。
 とにかく、そろそろ休憩は終わりだ。ぼくはマグカップの中のコーヒーを飲み干すと、仕事部屋に戻った。




 近所の本屋に寄ってみると、信じ難い光景を目撃してしまった。
 あの承太郎さんが漫画雑誌を立ち読みしている。制服を着た中高生男子の群れに混じった、白づくめのでかい男は目立つ。浮いている。しかもそんな真面目な顔で、時折眉間に 皺を寄せながらページをめくっていく。偶然にもそれは、ぼくが漫画を連載している雑誌だった。
 数分後、目当てのものを読み終えたらしい承太郎さんは雑誌を棚に戻したかと思えば、今度は漫画の単行本が置いてあるところに向かっていく。一応、本人には見つからないように 隠れながら移動している。まるでストーカーだ、こんな自分に呆れた。
 棚の高いところから数冊を抜き取っていく。この位置からでは、承太郎さんがどの漫画を手に取ったのかは全く見えなかった。ほんの少しだが、気になる。
 いい加減家に帰ろうと思い引き返そうとした途端、先ほど雑誌のコーナーにいた中高生男子の集団に囲まれた。
「岸辺露伴先生ですよね、いつも漫画読んでます! サインください!」
 目を輝かせながらぼくにノートや生徒手帳を差し出してくる、彼らの声は異様に大きかった。店中に響き渡っているかのようなレベルだ。冷や汗をかきながら視線をずらすと、 まさに店を出ようとしていた承太郎さんが、本屋の紙袋を抱えながら明らかにこちらを見ていた。




「いつもあんな感じなのか」
「何のことです?」
「名前と顔が知れていると、ファンに囲まれたりとかな」
「まあ、ぼくは有名人なので……もう慣れました」
 連載を始めた高校時代からよくある状況だったので、今となっては大したことじゃない。
 結局あの本屋で承太郎さんに見つかってしまったぼくは、帰り道を彼と一緒に歩いている。その紙袋の中身が気になり、聞いてみるつもりでタイミングを窺っていた。 漫画じゃなければここまで敏感になることもなかったのだろうが。
「漫画、お好きなんですか」
「学生の頃はよく読んでいたが、最近はさっぱりでな。何が流行っているのかも分からない」
 海洋学者というお堅い職業の承太郎さんが、漫画を読む姿は想像できなかった。だから本屋で立ち読みをしていた彼を見て驚いたのだ。
「偶然目についた雑誌をめくったら、ちょうどあんたの漫画を見つけた」
「ぼくの?」
「途中からだと話が見えなかった。とりあえずさっき、1巻から買ってきたんだ」
 そう言って承太郎さんは、手に持っている紙袋を目線の高さまで持ち上げてぼくに示した。
 まさかその漫画に興味を持ってくれるとは。単に、知り合いがどんなものを描いているか気になっただけかもしれないが。
「もし時間があるなら、おれの部屋に来ねえか」
「ずいぶん唐突なんですね」
「読んだ感想を、すぐに伝えようと思う」
 描いた立場としても、漫画の感想はとても気になる。原稿も一段落していて余裕があったので、軽い気持ちで誘いに乗ることにした。




 ぼくの目の前で5巻まで読み終えた承太郎さんは、面白かった部分から納得のいかない部分まで細かく感想を言ってくれた。読んでいる最中は常に無言で、あまり表情も動かなかった。 それを向かい側で眺めていると、楽しんでいないのかと思い不安になった。しかし感想を聞いて安心する。編集部の人間ではない彼と漫画について話すのは、とても新鮮だ。
「あなたの意見、参考にさせてもらいます」
「漫画に関しては素人だが、役に立てて光栄だな」
「だからいいんですよ、業界の人間からの評価よりもストレートで面白い」
 顔を上げると、視界に入ったのは承太郎さんの左手の薬指。そこにはまっている指輪がやけに目についた。彼が結婚しているからといって、ぼくには関係のないことなのに。
 男らしさと美しさを兼ね備えた、日本人離れした顔立ち。深い緑色の瞳。思わず釘付けになり、目を細めた。それらを間近で、存分に見つめていられる立場の人間は限られている。
「承太郎さんの奥さんは、幸せ者ですね」
「何だ、急に」
「いや、あなたと話しているとすごく楽しいし。確か娘さんもいらっしゃるんですよね」
「おれはそんなに、立派な父親じゃねえよ」
 低く呟いた承太郎さんの表情が暗いものになった。ぼくは無意識に、彼の気まずいところに踏み込んでしまったのだろうか。こうしてふたりきりで話をしたのは初めてで、 特に親しいわけでもなかったので、触れてはいけない話題についても把握していなかった。仗助やジョースターさんなら多分、こんなミスをすることもない。
 ソファから立ち上がった承太郎さんは、何を思ったのか向かい側にいるぼくのすぐ隣に腰掛けた。急に距離が近くなり、彼の本心が読めずに心が乱れる。
 既婚者と恋なんかしたくない。その考えは少しも変わっていない、はずだった。




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2011/11/17