露伴は厨房で、離れた部屋にいる夫婦のためのコーヒーを準備していた。
 使用人として雇われてから数ヶ月、仕事は完璧にこなしてきた。料理も掃除も全て、文句のつけどころもないくらいに。
 この館には主人である承太郎とその妻、そして幼い娘・徐倫が暮らしている。一見すると普通の家族だが、最近はどこか様子がおかしい。昼夜問わず夫婦の言い争う声が聞こえる ようになり、娘を連れた妻が何日も館に帰ってこない時もあった。部外者である自分は口出しも詮索もせずに、気にしない振りをしながら仕事を続けてきた。 ひとりで寂しがっていた徐倫に、昔からの特技である絵を描いて和ませることもあった。
 夫婦仲を取り持つのは、使用人の役目ではない。本人達が解決するべき問題だ。
 何が原因かは知らないが、このままでは離婚するかもしれない。そんな予感がしている。
 コーヒーを注いだカップをトレイに乗せている最中、厨房に誰かが入ってきた。近づいてくる足音のほうへ視線を向けると、そこには承太郎の姿があった。
「どうやら長くなりそうだ」
「……そうですか」
 それほど長い時間は経っていないはずだが、待ちきれなくなり様子を見にきたのかと思っていた。
「旦那さ……いや、承太郎さん。今はぼくよりも、奥様のそばに」
「ああ、分かっている。それよりあんたの意見を聞きたい、おれはこれからどうするべきか」
「ぼくにそれを聞くんですか」
「すまない、ここまで来てまだ迷っているんだ。徐倫のこともあるしな」
 徐倫を先に寝かせ、夫婦はこれからについて話し合っている。離婚が決まった場合はどちらが娘を引き取るのか、その他色々なことを。
 トレイを持ち上げようとした手を、承太郎に握られた。手のひらの熱さに動揺する。大切な話し合いの場を抜け出した上に使用人の男に思わせぶりな行為をして、一体どういうつもりだ。
 露伴、と耳元で名前を囁かれてぞくぞくした。
 彼の妻子が、前に館を出て行った日の夜を思い出した。長く続いた口論で疲れ果てたのか、承太郎は客間のソファに横になったまま眠ってしまった。仕事の合間にそれを見つけた 露伴は、2階から持ち出した毛布をその身体にかけ、起こさないように部屋を出た。
 見返りも何も求めていない、そんな小さな出来事が全ての始まりだった。承太郎はやがて帰ってきた妻の目を盗みながら、露伴の元を訪れるようになっていた。今までは主人と 使用人という分かりやすい図式だったが、ふたりでいる時は名前で呼んでくれという無茶な要求をされて、それに従っているうちに少しずつ自分の立場が分からなくなっていた。
 今更ながら見えてきた。こんな調子だから承太郎は、妻に愛想を尽かされ言い争う羽目になるのだ。
 唇や肌を重ねた関係ではない。さすがにそこまではと思っていたが、そばにいる時の空気やこちらに向けられる眼差しを感じていると、いつか間違いを犯してしまいそうな気がした。
 主人の妻子とまともに目を合わせられなくなっては、仕事に影響が出る。承太郎に心を染められながらも、これまで通りただの使用人として取り繕わなくてはならなかった。
 もしかすると夫婦がここまで冷え切ってしまったのは、露伴にも責任があるかもしれないと考えていた。館の主人からの命令でも、流されずに拒むべきだったのか。
「おれは、最低だな」
 そんな呟きに、何も返せなかった。こんな時でも承太郎をひとりの男として意識する自分が、浅ましくて腹が立つ。
 もし露伴がここを辞めて出て行けば、離婚を食い止められるだろうか。
「あんたに頼みがある」
「頼み?」
「これから何があっても、おれを置いていかないでくれ」
 数秒前までの考えを見透かしたような台詞だった。
 ふたり分のコーヒーが、手元で冷めかけている。やがて身を屈めた承太郎に初めて唇を奪われた露伴は、彼を見捨てることができなくなっていた自分の気持ちに気付いてしまった。




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2011/10/1