保健室の純情/1





全身を包んでいた心地良い夢うつつの状態は長くは続かず、勢いよく開いたカーテンの音がした直後に布団をはがされた。

「お前が仮病なのはもう分かってるんだ、さっさと教室に帰れ東方仗助!」

部屋中に響く、明らかに怒りを含んだ声だった。布団を奪われた身体は急に冷えていく。
重い目蓋をようやく開けて身を起こすと、そこにはひとりの若い男が立っていた。眼鏡の奥の鋭い視線がこちらを射抜いている。 汚れひとつない白衣に包まれた細身の身体、整った顔立ち。遠くから見てもすぐに分かる、個性的な髪型。
男の名前は岸辺露伴といい、この学校の校医だ。その仕事ぶりは完璧だが、性格に多少の難がある。

「ひどい扱いやめてくださいよ! ちょこっとベッド借りただけじゃないっスか!」
「それは病人のためのベッドだ、眠いなら家に帰って寝てろスカタン!」

頭の病気は僕の専門外だぞ、と付け加えて露伴は嘲笑した。仗助との間に一瞬だけ激しい火花が散る。
露伴はまるで相手の心を読んでいるかのような正確さで、保健室を訪れた生徒が本当の病人か否かを見極める。そして仮病だと判断すると有無を言わさず追い返す。 その容赦のなさで一部の生徒達からは、あの世で死人の魂に裁きを下す閻魔にも例えられていた。とにかく一筋縄ではいかない人物だ。
今日は露伴が不在中の保健室にこっそり忍び込み、勝手にベッドで寝ていたので怒りを買っても仕方がない状態だった。 罵られるのは分かっていても、つい足を運んでしまう。
頭ではなく多分これは心の病だ。しかもかなり重い。

「先生ってここに来る奴らが仮病かどうか、何であんなに見分けられるんスか」
「そんなの顔色を見ればすぐに分かる」
「分かりすぎじゃないっスかねえ〜」

さすが閻魔、と続けて口に出そうとしてやめた。物騒な呼ばれ方をされていることを知れば、この男はますます機嫌を損ねるに決まっている。
今まで何度もこの保健室に足を運んできたが、毎回顔を見るなり仮病を見抜かれて追い出されてきた。こうなったら1度くらいは露伴を騙してみたいという意地が生まれ、 何度もここに来てしまう。騙すだの騙さないだのそういう気持ちよりも、いつの間にか純粋に露伴の顔が見たいというものに変わっていた。
とにかくここに来れば逢えるのだから、そのうち仲が発展していい感じの関係になるのが目的だ。今の様子ではあまり期待できそうにもないが。
そんな時ドアが開き、小柄な男子生徒が入ってきた。仗助の友人のひとり、広瀬康一だ。
それまで不機嫌そうにベッドの横に立っていた露伴の表情が、一瞬にして変化する。気味が悪いほどにこやかになり、康一に歩み寄る。

「どうしたんだい、康一君」
「あの……ちょっと身体がだるくて。熱測らせてもらえませんか」
「それは大変だ、顔色も悪いようだからそこのベッドで休むといいよ。あそこのくそったれ馬鹿のことは気にするなよ、すぐに追い出すからね」
「ち、ちょっと先生!」

目の前の展開に我慢できずに、仗助はベッドから降りると露伴と康一のそばに早足で近付く。体温計を借りに来ただけの康一に対して、やけにサービス過剰すぎだと思う。
露伴が康一を気に入っていることは前から知っていたが、自分との対応の違いをここまで見せつけられては黙っていられない。

「何だ東方、お前まだ居たのか? 早く教室に帰れ」
「俺の時と対応違いすぎじゃないっスか!」
「康一君は本当に具合が悪いんだよ、親切にするのは当然だろう?」
「しかも、しっ……下の名前で呼ん」
「ああー、本当にうるさい奴だなお前は!」

仗助の言葉を遮るように露伴が怒声を上げた。近付いた途端に再び睨んできた上に舌打ちまでされて、もはや後戻りできないほど暴走してしまっている。
間に挟まれている康一は、困惑した表情で仗助と露伴の顔を交互に見ている。そうしているうちに、休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴った。

「ぼ、僕……次の授業始まってしまうので、出直してきますね」

苦笑いを浮かべながら言うと、康一は保健室を出ていった。時間的に余裕がなかっただけではなく、この雰囲気に耐えられなかったのかもしれない。
露伴は深いため息をつき、テンションがガタ落ちしたと言わんばかりの、うんざりした表情をこちらに向けてきた。

「疫病神め」
「そういう言い方やめてくれませんかね、傷付くんで」
「お前がそんなに繊細な奴には見えないぜ」
「俺のことなんて知ろうともしてねえくせに、決めつけんなよ」

苛立ちをぎりぎりまで抑えた口調で仗助が呟くと露伴は、一歩踏み出しこちらに迫ってくる。至近距離まで身体が近付き、今までにないほど強く意識してしまう。 耳元に露伴の唇が寄せられた時、頬が熱くなるのを感じた。思わず目を固く閉じる。

「知ってほしいのか?」
「……えっ」
「だったら僕をその気にさせてみろよ、仗助」

絶対にそう呼ばれることなどないと思っていた。
耳元で、初めて下の名前だけで呼ばれたので驚いて目を開けると、露伴は意味深な笑みを浮かべていた。まるでこちらを挑発しているかのような。
薄いレンズの眼鏡越しでも、色恋沙汰に慣れていない仗助の胸を射抜いた、その視線の威力は全く衰えない。露伴のこんな表情は見たことがなかった。
生徒と校医の禁断の関係というものを想像してしまい、そこに至るまでに踏むべきあらゆる手順を飛ばして展開早すぎだと思いながらも、止められない期待で密かに息を飲んだ。




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2009/11/19