幻 覚 と 現 実 と / 2




令ちゃんから貰った大切なロザリオをあげてもいいくらい、可愛いと思える存在。
そんなもの、よく考えなくても決まっている。
きっと誰にも理解してもらえないだろうけど。
だから今はそっと自分の胸にしまっておくしかない。


***


放課後の薔薇の館。
由乃は流しに立ち、人数分の紅茶やコーヒーを手際良く用意するとそれらをお盆に乗せた。
背後ではいつもの山百合会のメンバーに1年生の瞳子と可南子が加わって、書類の整理や作成に精を出している。
1年生の2人は、祐巳が連れてきた学園祭までの助っ人だ。
彼女達は祐巳の力……いや、強い人望が引き寄せた。
下級生に人気のある祐巳はきっと、将来は多くの生徒達に慕われる素敵な薔薇さまになるだろう。
今までその称号を得た人達が築いてきた完璧なイメージとは違う、誰からも好かれる親しみのある薔薇さまに。
そうなる前に、祐巳にも妹が出来ているはずだ。
どこの誰を選ぶのかは分からない。ここにいる瞳子や可南子かもしれないし、他の1年生かもしれない。
それを決めるのは祐巳だ。由乃があれこれ言う資格は無い。
しかも由乃には祐巳よりも厳しいタイムリミットがあるのだ。
半ば見栄と勢いだけで交わした約束。
しかし未だに妹候補の目星すらついていない状況の中、由乃の胸には無謀とも言うべき、決して叶う事の無い考えが生まれていた。
それは時間が経つにつれて、徐々に膨れ上がっていくのを感じていた。他の誰にも言えない。例え言っても絶対に理解されない。
一体どこから狂い始めたのだろう。
こんな気持ちを抱えたまま、何事も無かったように振舞っていけるだろうか。
テーブルの端から祥子、瞳子、可南子……と順番にカップを置いていく。
そして祐巳のミルクティーを置く直前、由乃はあらかじめ用意していた小さなチョコレートをひとつ、その受け皿に乗せて祐巳の手元に置いた。
チョコレートはカップの陰になるように乗せたので、他のメンバーには見えないはずだ。
祐巳はそれに気付いたらしく少し驚いた顔でこちらを振り返ったが、由乃は何も言わずに目を細めて微笑んで見せた。


***


翌日、ジャージや体操着の入った袋を片手に、由乃は祐巳と一緒に廊下を歩いていた。
次の授業は体育なので、休み時間のうちに移動と着替えを済まさなくてはならない。

「由乃さん」
「なに?」
「最近、同じ夢を何回も繰り返し見るんだ」
「へえ……どんな夢?」

祐巳との何気ない会話。いつもと変わらない光景。
これが日常。壊れるなんて考えられない。

「由乃さんが私を黄薔薇のつぼみの妹として、江利子さまに紹介する夢なんだけど」

それを聞いた瞬間、由乃は絶句した。
何か返事を返さなくてはならないのに、言葉が何も出てこない。
しかし祐巳はそんな由乃の様子にも気付かずに話を続ける。

「私が由乃さんの妹になるなんて変だよね。今まで想像もしてなかったもん。だって有り得ないよ、学年も一緒で私は紅薔薇のつぼみなのに」
「………」
「でもあくまで夢だし、特に意味は無いよね。だから私、全然気にしない事にしてるんだけど……ごめんね由乃さん、変な話しちゃって」
「……うん」
「早く体育館行かなきゃ、遅れちゃうよ」

先ほどよりも足早に体育館へ向かう祐巳の後ろを、由乃は少し遅れてついていく。
その足取りは重かった。


***


更衣室へ到着した頃には、他のクラスメイト達のほとんどが着替えを終えていた。
由乃は制服を脱いで、ジャージと体操服を身につける。
隣で着替えていた祐巳は一足先に準備を終え、クラスカラーの鉢巻きを額に締めた。

「由乃さん私、今日は日直だから先生のお手伝いに行かなきゃいけないんだ。先に行くね」

祐巳はそう言うと慌てて更衣室を出て行った。
今はもう、更衣室には由乃しかいない。
取り残されたような気がして、寂しかった。
早く着替えて行かなくては。
何気なく横を向くと、祐巳が使っていたロッカーの扉が開きっぱなしになっていた。

「祐巳さん、本当に慌て者なんだから……」

その扉を閉めようとした時、隙間から折りたたまれた制服が見えた。
その上に置いてあるのは、祐巳のロザリオ。
祥子から貰ったという、姉妹の証。祐巳の宝物。
由乃の胸が、大きく鼓動を刻んだ。

『私が由乃さんの妹になるなんて変だよね』
『有り得ないよ』
『私は紅薔薇のつぼみなのに』

吐き出す息が震え、止まらない。
江利子の勝ち誇ったような笑み。
祐巳の申し訳無さそうな表情。
どこからか生まれてきた幻覚が、由乃を容赦無く襲う。
力が抜けて床に両膝をつくと、頭を抱えた。
とにかく幻覚から逃げ出したかった。
それでもそれは由乃を嘲笑うかのように大きくなり、心を蝕んでいく。
ずっと忘れる事の無かった、いつか祐巳と手を繋いだ時の温もり。
その温かさは蝕まれた心と共に急速に冷え、消えていった。
十数秒後、顔を上げた由乃の瞳は暗かった。

……もしこのロザリオが無くなれば、祐巳さんは私のロザリオを受け取ってくれる?
私の妹になってくれる?
私の妹として、江利子さまに会ってくれる?
薔薇の色なんて関係無い。同学年?それが何?

由乃はゆっくりと立ち上がってロッカーを開け、祐巳のロザリオに手を伸ばした。




next

back



04/10/4