向かいの席に座っている志摩子の前にティーカップが置かれるのを眺めながら、由乃はぼんやりとしていた。 放課後の薔薇の館は、いつも通り学園祭に向けて大忙しだった。 1年生達はまだ来ていなかったが、のんびり待っている余裕は残されていない。 そんな状態なのに由乃は仕事に集中する事が出来ずにいる。 ……更衣室で、祐巳のロザリオに手を伸ばした由乃だったが、いつまで経っても体育館へ来ない由乃を心配したらしい体育教師が様子を見に来たため、結局ロザリオを手にする事は無かった。 心臓の手術を終えて丈夫な身体になったとはいえ、学園の関係者は未だに由乃を必要以上に心配する者が多い。 更衣室の中で倒れているのでは、と思われたのかもしれない。 今はもう心臓の発作は起きないが、疲れがたまると熱が出る。その程度だ。これでも病弱少女そのものだった昔に比べれば、かなりマシになったと言える。 そう思っているのは自分だけかもしれないけれど。 手元に由乃のティーカップが置かれた。 微かなレモンの香りを放つ温かいそれに触れかけた手が、止まる。 ティーカップの陰に隠れるように、イチゴ柄の包装紙に包まれた小さな飴が受け皿に添えられていた。 隣にいる令や、更にその隣の祥子の受け皿をさりげなく見ても、飴は添えられていない。 顔を上げるとお盆を抱えた祐巳がこちらを向いて、人差し指を唇に当てて見せた。 みんなには内緒ね?……そんな心の声が聞こえたような気がした。 その瞬間、由乃は急に身体が熱くなるのを感じた。 強い衝動に突き動かされるままに、祐巳のロザリオを奪おうとしていた自分が、泣きたくなるくらい情けなくて腹立たしかった。 そんな事をしても祐巳が悲しむだけで、何の得にもならないのに。 祐巳が好きだ。好きだから、その笑顔を曇らせたくなかった。 自分勝手で浅はかな願望が、大切な人の気持ちを踏みにじるところだった。 耐えよう。例えどんなに妹問題のプレッシャーに負けそうになっても、祐巳を困らせたり悲しませる事だけはしたくないから。 決して知られてはいけないこの気持ちは、ずっと胸にしまっておこう。 受け皿に添えられていた飴を握り締めながら、そう決意した。 しかし抑え続けた感情が強ければ強いほど、爆発した時の危険が大きいという事を、由乃は考えもしていなかった。 「由乃、最近元気無いね」 今日の仕事を終えて薔薇の館を後にして、いつもの習慣通りマリア像へ祈りを捧げた後で令がそんな事を言った。 「そう……見える?」 「なんとなく口数も少ないし。何か悩みでもあるんじゃない?」 「別に、何も」 思わず令から目を逸らし、先を歩く。 気まずい雰囲気だった。 本来の由乃は思った事をはっきりと口に出し、ぐずぐずと悩むのが嫌いな人間であるはずだった。 しかし今の自分は、いつもの自分ではなかった。 由乃にとって、誰よりも信頼している令が相手でも言えるはずがない。 あまりにも無謀で常識外れな考えに呆れて怒るだろうか、それとも嘆くだろうか。 どう転んでも、笑いながら同意してくれるなんて事は有り得ない。 「由乃」 背後から名を呼ばれる。耳に馴染んだ令の優しい声。 由乃は立ち止まったが、振り返らなかった。 「私は、由乃が辛い時や悩んでる時に、1番の支えでありたいと思ってる。そんな時に、見て見ぬ振りなんて出来ないよ」 「だから何でもないって……」 背中を向けていて良かった。顔を見られていたら、何でもない振りをするのは困難だ。必死で涙を堪えているのがばれてしまう。 「前に由乃、言ってくれたよね。私のためなら何だってできるって。私だって同じ気持ちだよ。由乃のためなら私……」 もうやめて、と叫びたかった。 このまま令の言葉を聞いていたら、全部話してしまいそうになる。祐巳を妹にしたい気持ちも、そして祐巳のロザリオを奪おうとした事も。 同意はしてくれなくても、令なら話しても大丈夫だと思って甘えてしまいそうだった。怒られたって構わないとも思った。 崩れてしまいそうな自分を、本当は誰かに受け止めて欲しかったのだ。 「令ちゃん……」 やっと令のほうへ顔を向けた由乃だったが、思ったままに駆け寄る事は出来なかった。 令の隣には、いつの間にか江利子が立っていたからだ。 「偶然見かけたから声をかけようとしたんだけど……お邪魔だったかしら?」 その微笑を前にして、由乃はただそこに立ち尽くす事しか出来なかった。 |