休み時間に廊下を歩いていると、向こう側に2人の生徒の姿が見えた。ロザリオの契りを結んだ3年生と2年生の姉妹。 妹のほうは由乃のクラスメートだった。由乃と祐巳が一緒に歩いていてもこの高等部では2人を姉妹だと思う者はおそらく存在しない。 確実に約束されているわけではないが、由乃と祐巳は将来の薔薇さま候補なのだから。存在も名もあまりにも知られ過ぎている。 いっそこんな大げさな称号さえ付いていなければ、広い高等部の中の誰かは姉妹かもしれないと誤解してくれるだろうか。 そんな望みの薄い考えを頭に浮かべながら歩き続ける。注意力が散漫になっていたせいか、窓際に立っていた誰かの肩に身体がぶつかってしまった。 声を聞かなくても顔を見なくても、それが誰なのかはすぐに分かった。首からカメラを下げている生徒なんて1人しか知らない。 同世代の中でも抜きん出て大人びた存在である武嶋蔦子。その眼鏡の奥の、理知的な瞳が由乃を映した。 「これは失礼、由乃さん」 「……ごめん」 自分でも異常だと感じるくらい覇気の無い声が出た。それを聞いた蔦子の表情が訝しげなものになる。 浮かない顔を晒し続けるのも嫌だったので、背を向けて再び歩き出そうとした。 「いつも青信号の由乃さんが立ち止まってるなんて、珍しい」 背中に投げかけられた蔦子の言葉は今ここで由乃が足を止めている事ではなく、最近の沈みがちな精神状態のほうを示しているのだと思う。 この場で由乃がいくら取り繕ったとしても、勘の鋭い彼女は見抜いてしまうだろう。口に出して問い詰めるような事はしなくても。 ただでさえ直情的な由乃は隠し事が苦手だというのに。 由乃が窓際の壁に背を預けると、蔦子も同じようにした。どうやら話を聞いてくれるらしい。 「例えば、の話ね。ロザリオをあげたい人がいるんだけど、相手がそれを受け取ってくれる確率はかなり低い……いや、ゼロに等しいの。そういう時、蔦子さんならどうする?」 「これはまた、ずいぶんと難儀な相手に惚れてしまったこと」 「たっ……例えばの話だってば」 「私は姉も妹もいない身だから無責任な事は言えないけど、相手の気持ちを尊重するべきじゃないかな? 姉妹の件に限らず、一方的に押し付けるだけの想いって結局、相手も自分も傷付ける事になるわよ」 それは紛れもなく正論だった。だからこそ由乃に衝撃を与えた。 人間関係は1人で築くものではない。そんな事は言われなくても分かっていた。分かっていたつもりだった。 今、自分が抱いている想いによって、祐巳を悩ませたり傷付けたりするのは辛い。それこそ由乃が1番恐れていた事だから。 諦めるべきだ、という声が聞こえた。自分の心の中で。決して叶わない願いを引きずっていても仕方が無い。 どうせなら悩んでいるその時間を妹探しに使うべきだ。こうしている間にも時間は過ぎ、剣道の交流試合の日は迫っている。 江利子に妹を紹介する日が。いつまでも同じ場所に立ち止まっている余裕は残されていない。 祐巳を妹にしたいという無謀な願いを捨ててしまえば、誰も傷付かずに済む。 まるで自身の良心が生み出したとも言えるそれは、由乃の心を強く揺るがせた。 音楽室の掃除が終わった後、由乃はひとりでそこに残って掃除日誌を書いていた。これが終わったら薔薇の館へ、 と頭の中で計画を立てていると、急にドアが開いた。 合唱部の部員が来る時間にはまだ早いはず。しかし、入ってきた人物を見て動揺した。 「祐巳、さん……」 「音楽室の掃除、もう終わる頃だと思って迎えに来ちゃった」 鞄を持った祐巳が、無防備な笑顔で由乃のそばへ歩いてくる。 由乃が祐巳に対してどういう想いを抱えているかなど、祐巳本人はきっと知らない。そのほうがいい。 今の関係が壊れて気まずくなるよりは、ずっと。後は自分の決意が無駄にならないように、けじめをつけるだけだ。 掃除日誌を書き終えると、由乃は椅子から立ち上がって祐巳と向かい合う。 「祐巳さん。薔薇の館へ行く前に、お願いがあるの」 「うん、いいけど……お願いって?」 「ロザリオ授受の練習に付き合ってほしいんだけど」 「ここで? 薔薇の館じゃなくて?」 「そうよ。ここで、最後の練習をするの」 時間が経つと決意が揺らぐかもしれない。そうなってしまう前に。 「最後、って……もしかして由乃さん、妹候補が見つかって」 「違うの。何も聞かないで」 由乃は祐巳の言葉を遮るようにそう言うと、首からロザリオを外して掲げた。 これが最後。ロザリオ授受の練習も、祐巳への無謀な想いも全て。 声が震えない事を祈りながら、何度も繰り返してきた台詞を紡ぐ。 「……これ、あなたの首にかけても良いかしら」 掲げたロザリオの向こうで祐巳が由乃を見つめていた。 「はい、お受けします」 もしこれが本当の儀式なら……そんな想いが溢れて止まらない。 ロザリオを祐巳の首へかける。必要以上に時間をかけて、その瞬間が過ぎるのを惜しむかのように。 由乃のロザリオを身に付けた祐巳を、由乃は一生忘れまいとして目に焼き付ける。もう2度と見る事の無い、その光景を。 何かを言おうとした祐巳を、由乃は無意識に抱きしめてしまった。予定外だった。こんな事をしたら余計に離れ難くなるだけなのに。 「由乃さん……」 「このまま……もう少しだけ、このままでいさせて……」 喉から必死で搾り出したその声は震えていた。 突然の由乃の行為にも祐巳は抵抗の素振りを見せなかった。 初めて密着した祐巳の身体は、由乃ほどではないが小さくて華奢だった。制服の布地を通して伝わる体温、髪の香り。 それらは甘い毒となって由乃の身体に染み込み、心を惑わせた。 これほどまでに大切で、ロザリオをあげても良いくらい可愛い存在。 由乃にとって、やはりそれは祐巳だけだと思い知らされた。 また、同じ場所へ戻ってきてしまった。 |