幻 覚 と 現 実 と / 6




諦めが悪い、と自分でも思う。
どうしてあの時、祐巳を抱きしめてしまったのだろう。 取り返しがつかなくなる事は目に見えて分かっていたのに。せっかくの決意は鈍るどころか、小さくなって消えてしまった。 これからどうすれば良いのか。正直な気持ちを伝えれば祐巳が困るだろうし、このまま気持ちを抑えたままでいれば、 やがて爆発して祐巳にひどい事をしてしまうかもしれない。 抱きしめるよりも、もっと。自分の事は自分が1番良く知っている。結局どちらを選んでも祐巳を辛い目に合わせてしまう。 一方的な想いは相手も自分も傷付ける。蔦子の言葉が心に刺さる。自分はいくら傷付いても構わない、でも祐巳は傷付けたくない。 わがままだと言われてもいい、祐巳には何も知らないまま明るくあたたかい道を歩いていてほしかった。


***


朝、いつものように校門から続く銀杏並木を令と並んで歩く。 この時間になると、他の生徒達の姿も多く見かけた。穏やかな時間と共に流れていく他愛も無い会話の間に、突然それは訪れた。

「祐巳ちゃんの事なんだけど」
「……祐巳さん?」
「まだ気持ちは変わってないの?」

令の問いに由乃が無言で頷くと、小さなため息が聞こえた。

「由乃、お願いだから冷静になって考えて。もう少し待てば、妹にしたいと思える1年生と出会うかもしれないし、 納得の行く相手にどうしても出会えなかったら、聖さまみたいに3年生になってから妹を持っても構わないのよ。 さすがに卒業まで引き伸ばすのはまずいけど」

祥子が聞いたら確実に反感を買うような事まで言い出した。 要するに令は、祐巳を妹にしたいという無謀な考えを由乃が捨ててくれるなら多少の無理も聞くというのだろう。 しかし3年生になってからでは遅すぎる。色々と。
令は由乃の正面に立つと、真剣な表情を向けてきた。

「私は焦らなくてもいいって言ったはずよ。それとも由乃には、今すぐにでも妹を作りたい理由でもあるの?」

江利子の顔が浮かび、心臓のあたりが一瞬冷えた。隠し事をするのは良くないと分かっている。しかし令に言うわけにはいかなかった。 軽い気持ちで聞き流してくれるとは思えない。
黄薔薇姉妹が意味あり気な雰囲気で向き合って立っている光景に、周囲の生徒達の視線が集まる。 通り過ぎていく間にも皆、令と由乃のほうを振り返っていくのだ。
もし単に、江利子との約束を果たせず見下されるのが嫌なだけなら、 適当な1年生を強引に妹に仕立て上げる事だって考えたかもしれない。 しかし由乃はそうではない。妹にできる確率はゼロでも、ロザリオをあげたいと思うのは祐巳しかいなかった。
令の背後に見えるマリア像の前、見覚えのある2人連れが見えた。ストレートの長い黒髪と、動くたびに揺れるツインテール。 祥子と祐巳だった。2人は仲良さそうに何かを話しながら歩いている。楽しそうに笑っている祐巳を見て、由乃は複雑な気持ちになった。 言い換えれば、嫉妬と表現するべきか。祐巳にそんな顔をさせる祥子に対しての嫉妬。 おねえさま、と祐巳の唇が動くたびにその感情が大きく膨れ上がるのを感じた。他の誰も割り込めない、祥子と祐巳の空間。 きっと今の祐巳の心の中に由乃はいない。片時も忘れないでほしい、私はここにいるのに。
由乃は自身の中で鳴り始めた警鐘に気付かないまま、目の前に立っている令の横をすり抜けてひたすら走った。 そしてマリア像に手を合わせた後の祥子と祐巳の前に立つ。まるでその存在を示すかのように。

「あっ、ごきげんよう。由乃さん」
「ごきげんよう、由乃ちゃん」

2人からの挨拶にも由乃は何も反応しなかった。 その代わり、首にかかっているロザリオを外すと、それを祐巳に向かって突き出した。

「祐巳さん、私のロザリオ受け取って」
「……えっ?」

祐巳は状況が掴めないのか、口を半開きにしたまま由乃とロザリオを交互に見つめていた。その隣の祥子も呆然としている。
繰り返してきたロザリオ授受の練習は何だったのかと思うほど、あまりにも唐突でムードも何も無い渡し方だった。
やがて由乃に追いついてきた令も、由乃が祐巳にロザリオを受け取らせようとしているその光景によほど驚いたのか、 鞄を地面に落としその場に立ち尽くす。
更に由乃が叫んだ言葉が決定打となった。

「私の妹になって!」

リリアンの生徒達を見守るマリア像の前で起こった出来事に、周囲は騒然となる。崩れ落ちた平穏。 ずっと抑え続けてきた気持ちは些細なきっかけによって弾けてしまった。




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04/10/29