イエローカード騒動/4 鋭い悲鳴のようなブレーキ音が、空気を裂いた。黒い車が、由乃の目前で急停止する。 停まるのが数秒遅かったら、由乃は間違い無く車に衝突していた。 今の状況はまるで、夕方に再放送している昔のドラマの一場面だ。 そのドラマに出てきたのは黒い車ではなく、大型のトラックだったが。 チェロ奏者である女の気を引くために、さえない中年男が走ってくるトラックの前に飛び出して……その後どうなったのかは、 あまり真剣に観ていなかったので知らない。 そんなどうでもいい事が、混乱している由乃の頭をぐるぐると駆け巡った。 黒い車の扉が開き、そこから姿を見せた人物は由乃がよく知っている人物だった。 由乃が後部座席に乗り込むと、車はゆっくりと前へ進み出した。 座り心地の良さに癒されながらも、由乃は隣に座っている人物の様子を探る。 手入れの行き届いた黒髪。横顔からでも分かる、凛とした雰囲気。 彼女を崇拝しているわけではないが、誰もが振り向くような美人だとは認めている。 その美しい器の中身に、多少の問題があったとしても。 今年の春には紅薔薇の称号を引き継ぐ身である小笠原祥子は、射るような眼差しをこちらへ向ける。 「どういうつもりなの」 棘のある口調で、由乃に問いかけてきた。それが先程の一件を指している事は明らかなので、 由乃が最初に言うべき言葉はひとつだけだ。 「……申し訳ありません」 どう考えても、強気に出られる立場では無かった。非があるのは、信号を見ていなかった由乃のほうなのだ。 「この事は後で、令にも報告するわ。姉として、あなたを叱ってもらいますからね」 由乃に対して普段は甘い令も、今回ばかりは厳しい対応を取るだろう。 一歩間違えば由乃は死んでいたかもしれない。心臓の手術で、丈夫な身体を手に入れたばかりだというのに。 窮屈さとは無縁の、スペースが充分に確保された車内に沈黙が生まれる。 祥子に言われるままに乗ったものの、これは一体どこへ向かっているのか。 先程の件で由乃と話をするのが目的ならば、確かに野次馬が大勢見ているあの場ではやりにくい。 とにかく余計な邪魔が入らない、落ち着いて話せる場として祥子が選んだのが、この車内だったのかもしれない。 この車は、言うまでも無く小笠原家の所有物だ。学園の校門前で、由乃も何度か見かけた事がある。 車で送り迎えしてもらっている生徒は珍しくないが、その中でも小笠原家の車は群を抜いて目立つ高級なものだった。 何気なく窓の外へ視線を移すと、路地裏の奥で二人組の女が何人かの男に囲まれているのが見えた。 男達は、その後ろ姿だけでも柄の悪さがすぐに分かる。 女二人組の片方が、見覚えのある赤いダッフルコートを着ているのに気付いて嫌な予感に襲われた。 由乃は左側の運転席へ身を乗り出すと、 「すみません、車止めてください!」 建物の陰から路地裏の様子を窺っていると、後から祥子も追ってきた。 「一体どうしたというの?」 「お静かに……!」 先程よりも近づいてみたところ、皮肉な事に由乃の嫌な予感は的中していた。男達に囲まれているのは、やはり令と祐巳だった。 無謀にも奥へ飛び出そうとした祥子を、由乃は慌てて制する。 祥子が出て行ったところで、この場が円満に収まるとは思えない。 令は自分の身体を盾にして祐巳を護っていた。この子に触るな、と怒声を上げながら。 その背中の後ろで、祐巳は泣き出しそうな顔をしている。令を見上げて何かを言っているようだが、内容までは聞こえない。 やがて令の隙をついた男達の一人が祐巳の後ろに回りこみ、その肩を掴んだ。 「祐巳っ!」 動揺したらしい祥子が大声でその名を呼んだ直後、路地裏の男達がこちらを振り返る。 やるなら今が好機だ。今しかない。そう思い、由乃は大きく息を吸い込む。 「おまわりさーん! ケンカです、ケンカ! 早く来てください!」 本当は通行人しか居ない表通りに向かって由乃がそう叫ぶと、男達は急に慌て始めた。 由乃は彼らがこちらへ向かってくる気配を察し、祥子の腕を掴んで立て看板の陰に二人で身を隠す。 路地裏から男達が逃げるように去った後、令と祐巳も表通りへ出てきた。 「祐巳……無事で良かった!」 そう言って祥子は夢中で祐巳を抱き締めた。祐巳のほうは、状況がうまく飲み込めずに驚いているようだ。 「祥子、それに由乃……どうしてここに居るの?」 驚いているのは、祐巳だけではなかった。令と由乃の視線が絡み合う。 事情を全て話せば長くなりそうだが、こうなった以上もう後戻りは出来ない。 祥子の提案で、四人はとりあえず喫茶店で話をする事になった。 |