夜明けは薔薇の館で/前編



「なんだかドキドキするわね」

薔薇の館のいつもの部屋で、テーブルの向こう側の席に座っている由乃がそう言って微笑む。 彼女の手には淹れたての紅茶が入ったティーカップがある。ここまでなら日常的によくある光景だ。 別に特別な事など何ひとつ無い。しかし、今の由乃が着ているのはリリアンの制服ではなく紺色のスウェットで、 今は朝や昼ではなく夜の9時。どのような用事があっても、生徒も教師もこんな遅い時間まで学園内に残っているはずがない。 2階の全ての窓は、部屋の明かりが外部に漏れないように学園祭などで使った立て看板でふさがれている。
一方の祐巳は、ドキドキでは済まされないような緊張感で支配されていて、とても由乃のような余裕を感じる事は出来ないでいる。 こんな時間に自分達がここに居るなんて、果たして許されるものなのだろうか? もし誰かに見つかったら大変な事態になるのでは?  そんな考えばかりが頭をぐるぐると回り続けていた。
こうなったきっかけは、昨日の昼休みに起こった。


***


「え……?」

祐巳は信じられないような発言を耳にして、思わず手が止まってしまった。今、由乃は何と言った?

「だから、明日は薔薇の館に泊まらない? って言ったんだけど」

昼休みの薔薇の館には、祐巳と由乃しか居なかった。弁当を食べ終わった後、祐巳は2人分の紅茶を淹れた。 それを盆に乗せていた最中に、由乃の問題発言が飛び出したのだ。由乃は普段からよく突飛な発言をしては、祐巳を驚かせていた。 おそらく祐巳以上に被害を受けているのは、付き合いの長い令かもしれないが。しかし今日のは格別にとんでもない。 祐巳を硬直させるには充分な威力を持っていた。

「あ、あのね由乃さん。単にお泊り会がしたいのなら私の家に来ても全然構わないんだからね? 遠慮なんてしなくても……」
「遠慮じゃなくて、私は薔薇の館に泊まりたいって言ってるのよ? 祐巳さんと一緒に」

最後の一言はもしかして、祐巳も巻き添えにする気満々という事なのだろうか。出来れば聞きたくなかった。 無かった事にしていただきたい。

「どどどどうして薔薇の館に泊まりたいなんて思ったの?」
「だって面白そうじゃない!」

祐巳は頭がくらくらしてきた。誰かこの人を止めてください。 そんな願いも、この場に2人きりという状態では叶うはずもなかった。

「わ、私、今回は遠慮させていただき……」
「祐巳さん、これを見て」

完全に逃げ腰の祐巳に、由乃はどこからか取り出した1枚の写真を掲げて見せた。 それはエプロン姿の祥子の写真だった。周りに生徒達も写っているという事は、おそらく調理実習の最中を隠し撮りしたものだろう。 多少のブレはあるが、滅多に拝めない姿の祥子の写真は、彼女のファンなら何が何でも手に入れたいレアなアイテムだ。

「ど、どうしたのこの写真」
「令ちゃんに撮ってもらったの。蔦子さんほど上手くは撮れてないけど、ベストショットだと思わない?」

おそらく祐巳がゴネるだろうと予想して撮りに行かせたに違いない。いつもながら姉づかいの荒い妹だと思った。 祥子が授業中だという事は、令も同じ立場であるはずで、自分の授業をわざわざ抜け出してまでこの写真を撮ったというわけだ。 最愛の従妹のためとはいえここまでするなんて、令も少々お人よしすぎるのではないか。

「この写真、欲しい?」
「欲しいっ!」

夢中で叫びながら写真に手を伸ばしたが、由乃は絶妙なタイミングでそれを後ろ手に持って隠してしまった。

「祐巳さん、明日の夜のご予定は?」
「……由乃さんと一緒に、薔薇の館に泊まります」
「よろしい。契約成立ね」

由乃の微笑みを前に、祐巳はそれ以上何も言う事が出来なかった。まさに悪魔に魂を売り渡したような気分だった。
その翌日、祐巳はいつもジャージなどを入れている袋に部屋着や洗面道具など必要最低限のものを詰めこんで登校した。 修学旅行で使ったような旅行用バッグを持っていくわけにはいかない。 親には、放課後はそのまま由乃の家に泊まると嘘をついて出てきた。


***


「……さん、祐巳さん!」
「えっ?」

回想モードに入っていた祐巳を、由乃が現実世界へと引き戻す。

「もう眠くなったのかと思ったじゃない。夜はまだ始まったばかり、お楽しみはこれからよっ」

眠いわけではない。それどころか心配事がありすぎて眠くなるどころではなかった。 もしかすると朝まで目を開けている羽目になる気がする。 由乃は先程から何杯も紅茶を飲み続けているが、祐巳は紅茶のカップを前にしたまま口を付ける気にはなれなかった。 もうとっくに冷めてしまっているだろうし、由乃のように大量に飲み続けていると……。
突然、由乃の身体が落ち着き無くもぞもぞと動き出した。まさかその動きは。

「祐巳さん、トイレに行きたいから付き合ってもらえる?」

やっぱり。そう思って祐巳は椅子から立ち上がり、由乃と一緒に部屋を出た。薔薇の館にトイレは無い。 という事は外に出なければならないのだが、由乃は一体どこへ行く気だろう。 1番先に予想するのは校内のトイレだが、何となく嫌な予感がするのは祐巳の気のせいか。
外の肌寒さに、祐巳は羽織っていたピンクのパーカーのジッパーを上まで閉める。 今はジーンズを穿いているため、制服の時より身が軽い。 由乃の後をついて行き、たどり着いたのは来客用の玄関だった。しかし玄関の鍵はとっくに閉められているはず。 そう思っていると、由乃はポケットから何かを取り出し、それを懐中電灯で照らした。

「ヘアピン……?」
「これで鍵を開けるのよ。ちょいちょいっとね」

得意気に宣言する由乃だが、果たしてそんなに上手く行くだろうか。 大体ヘアピンで鍵を開けるなんて漫画やドラマの世界じゃあるまいし。 そんなもので鍵が開くなら、空き巣だって何の苦労もしないはず。
懐中電灯の明かりで鍵穴を照らしながら、由乃はヘアピンを差し込んだ。 祐巳はただその隣で、友人のピッキング作業を見守るしかない。 犯罪の片棒を担いでいるようで、あまり良い気分ではなかった。こんな様子を誰かに見られたら、どう言い訳すればいいのか。
時間が経つにつれ、由乃の手の動きがおぼつかないものになってきた。未だに鍵が開く気配は無い。 確かここまで来たのは、トイレに行きたいためであって。つまり我慢が限界に来ていて焦っているのだ。 見ているだけでそんな心境が手に取るように分かる。そしてとうとう、ヘアピンが鍵穴から離れた。由乃がため息をつく。

「祐巳さん……先に戻っててくれる?」
「えっ、急にどうしたの?」
「いいから早く」
「わ、分かった……」

言われた通り祐巳は来た道を引き返して薔薇の館へ向かう。 あの様子では鍵を開けられるとは思えないし、どうするつもりなのだろう。
部屋の中でのんびりする気分ではなかったので、階段に腰掛けて由乃の帰りを待った。 学園の敷地内とはいえ、暗い中を1人残すには不安があったが、あんなに切羽詰まった表情で戻れと言われたら戻るしかなかった。 やがて扉が開き、冷たい空気と共に由乃が中へ入ってきた。その顔色は何となく冴えないものだった。

「由乃さん、鍵は開いたの?」
「……開かなかったわよ」
「それじゃ結局、トイレは」
「何も聞かないで」

由乃は消え入りそうな声でそう言うと、ふらふらとした足取りで階段を上って行く。 結局トイレはどうなったのだろうか。鍵は開かなかった、もちろんトイレには入れなかった、でも今は我慢している様子は無い。 それらのシチュエーションを組み合わせて出てきた答えに祐巳の顔が青くなった。 今は大丈夫だが、もし祐巳がトイレに行きたくなった時は、由乃と同じ道を辿る事になるのだ。 あの時祐巳を先に戻らせた時点で、由乃はそうする決意を固めていたに違いない。 その場に残された祐巳はただ呆然とその背中を見送るしかなかった。

夜明けはまだ、遠い。




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2004/12/25