夜明けは薔薇の館で/中編 ビスケット扉を開けると、由乃は流しで手を洗っていた。 祐巳が部屋に入ってきた事に気付いているのかいないのか、水流の音が止んでもこちらに背を向けたまま動かない。 気まずかった。祐巳は何も言う事が出来ず無言で椅子に座り、由乃の様子を伺った。 やがて由乃はこちらへ戻ってきて自分の鞄を探り、何かを祐巳に差し出した。それは例の祥子の写真だった。 確かこれは、薔薇の館で一晩由乃に付き合った後に渡されるはずのもので、今はまだ早いのではないか。 「それ、あげる」 「えっ……でもこれは」 「いいのよ。私、後先考えずに突っ走って振り回して、祐巳さんに迷惑かけちゃったから」 由乃はそう言うと、祐巳の手元から顔へと目線を上げた。その表情からは、いつもの覇気は感じられない。 「祐巳さん……私の事、怒っても責めてもいいよ。そうされても仕方がないと思うから」 「……どうして? 由乃さんの言ってる意味、分からないよ」 「薔薇の館に泊まるなんて、今更だけど非常識だよね。さっきのトイレの件もそうだし、 泊まるのが目的の場所じゃないんだから、祐巳さんが不安になっても当たり前だと思う」 口には出さなくとも、祐巳には薔薇の館に泊まる際に色々と心配事があった。 薔薇の館はいわゆる生徒会室であって宿泊施設ではない。 歯を磨いたり顔を洗ったりできる流しや、この季節には欠かせないストーブはある。 少々年季は入っているが建物としては機能しているので、雨風はしのげる。 しかしトイレが無いので、先程のように外へ出たり入ったりしなくてはならない。寝る時はどうするのだろう。 部屋着をパジャマ代わりにするとしても、布団は? 1階の倉庫部屋に何か適当な物があるだろうと安易に思い込んでいたのが間違いだったかもしれない。 まさか家から布団一式を持ってくるわけにもいかなかったので。 放課後は薔薇の館に最後まで残って、由乃とそのまま泊まる予定を立てていたため、 周囲(特に山百合会のメンバー)に怪しまれないように荷物を最低限にまとめる事を何よりも優先していた。 「それでも私、祐巳さんと一緒に無茶してみたかったの。修学旅行の時は同じ部屋だったけど、 私が熱出したり日本へ電話したりしてて、祐巳さんと夜通しゆっくり過ごす時間、あまり無かったから」 「由乃さん……」 「私のわがままで色々不安にさせて、本当にごめんね」 確かに、薔薇の館に泊まる場合の下調べをちゃんとしていなかった由乃には全く責任が無いとは言えない。 けれど、全てを由乃にまかせっきりにして自分の身の上の心配ばかりしていた祐巳にも反省すべき点はあるはず。 気になる事があるなら、すぐに由乃に聞けば良かったのだ。 そう思った祐巳は、差し出された写真を由乃のほうへそっと押し返した。 「せっかくだけどこれは、まだ受け取れないよ」 「え……?」 「だってまだ、夜は明けてないから」 それ以上、祐巳はこの件について何も語らなかった。立て看板でふさがれた窓のほうを見た。 この向こうにある空はまだ真っ暗だろう。 写真を引っ込めた由乃が小さく「ありがとう」と呟いたのが聞こえた。 例え何があっても、由乃と一緒に薔薇の館で夜明けを迎える。祐巳は改めてそう決めた。 テーブルを挟んで向かい合わせに座り、祐巳と由乃がお喋りに夢中になっている時に、それは突然起こった。 扉の向こうから何か物音がしたような気がして、祐巳は声を出すのをやめて耳を澄ませた。 「どうしたのよ、祐巳さん」 訝しげに訊ねてくる由乃に、祐巳は自らの唇に人差し指を当てて「静かに」のポーズを取って見せる。 それを受けてか由乃も喋るのを止め、そして部屋の中へ完全に沈黙が落ちた。 何か、軋むような音が聞こえてくる。しかも断続的に。 その音を例えるならば、誰かが階段をゆっくりと上って来ているような……。 祐巳と由乃はほぼ同じタイミングでお互いの顔を見た。 先に動いたのは由乃のほうだった。由乃は席を立って部屋の明かりを消す。どろりとした闇が祐巳の視界を覆った。 窓がふさがれているため、わずかな月明かりの恩恵も受けられないのだ。 そうこうしているうちに祐巳は、強引にテーブルの下へ押し込まれた。続いて由乃も入ってくる。 大きなテーブルクロスのおかげで、2人の姿は外から完全に見えなくなった。 この館に入ってきたかもしれない人物をあれこれ予想してみる。強盗? それとも警察? どちらにしても怖かった。 もし見つかったらどうすれば良いのだろう。本来ならば居てはいけない時間にここに居る2人には、 逃げ場はもちろん対抗する手段も無い。 暗闇の中、強烈な不安に襲われて動けなくなった祐巳を、由乃が包み込むように抱き締めた。大丈夫よ、と囁きながら。 由乃の身体は、祐巳よりも少しだけ小さくて細い。けれど温かかった。 祐巳の心を支配していた不安が溶けて消えていくような、不思議な気持ちになった。 今ここで自分を包んでくれている温もりに、甘えても許されるだろうか? 祐巳は遠慮がちに両手を伸ばして、由乃の背中にしがみつく。 その直後、祐巳を抱き締めている由乃の腕の力が少しだけ強くなった。 |