「よっ吹雪、ここいいか?」
 間宮の食堂で朝食を取っている最中、テーブルの向こう側から誰かが声をかけてくる。顔を上げると、そこには重巡洋艦の摩耶が立っていた。
 最近2度目の改造を受け、対空能力と共に肌の露出度も上がったと艦娘の間でも評判だ。
 特に断る理由もなかったので「どうぞ」と答えると、摩耶は早速ご飯や味噌汁が乗ったトレーをテーブルに置き、吹雪の向かいの席に座った。
「そーいや吹雪、お前秘書艦だろ? じゃあ愛宕のアレ知ってるか?」
「……アレ、とは?」
「お色気で提督をドキドキさせちゃうぞ作戦」
 それを聞いた吹雪はまるで古い漫画のように、飲んでいたお茶を吹き出しそうになってしまった。
「なっ何ですかそれ!」
「いやー、あの提督って何があってもあんまり動揺しねえじゃん。だから女に迫られたら少しは顔色変えるんじゃねえかって、愛宕が言い出してさ。あたしと鳥海はやめとけって忠告したぜ。一応な」
 そんな話は初めて聞いた吹雪は、愛宕が司令官である青年に迫っている様子を想像して冷や汗を浮かべた。いかにも色気の塊という感じの愛宕に迫られたら、普通の男性なら誰もがその気になってしまうのではないか。
「で、実際に執務室の前で提督の奴を待ち伏せしてさ……一緒に部屋ん中入って、ふたりきりになって」
「そっ、それから、どうなったんですか!?」
 話の続きを聞くのが怖い、だが気になって仕方がない。吹雪は青年からその話を一切聞いていないので、まさに吹雪には言えない展開になったのかと思ってしまう。
「結局、提督にはあっさりかわされて終わったらしいぜ。ドキドキどころか顔色ひとつ変えなかったって、愛宕が文句言ってたな。まっ、女は胸がデカけりゃいいってもんじゃねえよな。お前もそう思うだろ、吹雪!」
 笑いながらそう言う摩耶の胸も、吹雪の倍以上大きい。
 後日、青年へのイタズラが高雄にばれた愛宕はきつく説教されたらしいが、吹雪はそんな摩耶の話が途中から頭に入らなくなっていた。



「おはようございます、司令」
「HEY、提督ぅー! Good morning!」
「ういーっす」
 通りすがりの霧島と金剛に、青年は軽い調子で挨拶を返しながら緩く片手を上げた。着ているのは海軍の白い制服ではなく完全に私服で、ジーンズの後ろのポケットには鎖のついた長財布が入っている。
 彼はたまに、こうして司令官らしかぬ格好で現れる。そしてこういう時に限って鎮守府を訪れた上層部の人間から「小林少佐は、未だに艦隊を指揮する者としての自覚が云々」などとお叱りを受ける羽目になってしまう。
 数メートル先を歩く青年は、追いつこうとして早足で歩く吹雪にはまだ気付いていない。
 やがて執務室に近づいた頃に青年は突然足を止めて、こちらを振り返る。眼鏡の奥の目が、吹雪を捉えた。
「やっぱり吹雪だった」
「え、気付いてたんですか!?」
「あんたの足音なら、すぐに分かる」
 俯きながら意味深なことを呟くと、青年は執務室のドアを開けて中に入る……が、吹雪も続いて入るまでドアを手で押さえてくれていた。



 青年が司令官としてこの鎮守府に着任した時、吹雪は何故自分を初期艦に選んだのかを訊ねたことがある。
『ああ、特に深い意味はないけど面白そうだと思って』
『面白い?』
『からかうといい反応が返ってきそうだから』
『そっ、そんな理由で私を選んだんですかっ!?』
 吹雪の問いには何も答えず、青年はただ笑うだけだった。それ以来、青年は吹雪が何かやらかすたびに容赦なく突っ込みを入れて楽しんでいる。やはり吹雪を選んだあの理由は本当だったらしい。
 そして艦娘が増えてきた今でも、こうして吹雪を秘書艦としてそばに置いている。
 気になるのは、最初の頃に比べて明らかに青年との会話が減っていることだ。大好きな酒や音楽の話、そして趣味のひとつである愛車の改造の話。色々なことを吹雪に話してくれていた。
 会話が少なくなっている上に、態度も妙に素っ気ない。吹雪が話しかければ答えてくれるが、青年からは以前のように気軽に話しかけてくれなくなったのだ。単に疲れているのかもしれない、とあまり深く考えないようにしていた。
 そんな時、鎮守府内で鳳翔が営んでいる居酒屋で、青年と隼鷹が朝まで酒を飲んでいたという噂が流れた。ふたりは酒好きという共通点があり、隼鷹は持ち前のノリの良さや豪快さでいつでも青年を引っ張って行く。
 何となく青年の機嫌が悪そうで近づきにくいと吹雪が感じる時でも、隼鷹はお構いなしで声をかける。決して空気を読んでいないというわけではなく、本当に放っておくべき時と声をかけても良い時のタイミングを心得ているようだ。
 他の艦娘よりも青年と一緒にいる時間は長いはずの吹雪は今でも、そのタイミングがよく分からずにもどかしい思いをしている。
 艦隊に隼鷹がいるだけで、どんなに辛い戦いを前にしても皆が明るくなれる。もちろん艦娘としての能力も優れているので、戦闘では主力として選ばれる機会も多い。
 吹雪は噂の件を隼鷹に訊ねてみると、確かに青年を誘って朝まで酒を飲んでいたが、それだけで他は特に「何もなかった」と話してくれた。まるで吹雪の不安を見抜いたかのように。
 そこで安心するべきだった。しかし吹雪との会話が減っている状況で、隼鷹とは朝まで盛り上がれるという事実に胸が痛んだ。その時吹雪は初めて、自分がいつの間にか青年を特別な存在として感じていることに気付いた。秘書艦として接しているうちに、ひとりでいる時でも彼のことを考える時間が長くなっていた。
 以前のように青年と楽しく過ごしたい。もう飽きられてしまったのかと思い込み、悲しい気持ちでいるのはもう嫌だ。



「あの、司令官。ちょっとだけいいですか?」
 青年が目を通していた書類を机に置いたタイミングで、吹雪は思い切って声をかける。顔を上げてこちらを見た青年と目が合った途端に、吹雪は胸騒ぎがした。
「もし宜しければ、ですけど……今日の夕飯、一緒に食べに行きませんか? 前にもふたりで食べに行った時、すごく楽しかったので」
 吹雪は緊張と不安で震える声でそう言うと、ファイルを抱える両腕に力を込めた。
 やけに長い沈黙の後で青年は一呼吸置くと、
「あともうひとり誘って、3人で行かないか?」
「えっ……」
 私とふたりじゃダメですか、と言いたかったが上手く声が出なかった。青年は遠回しに、吹雪とふたりで食事に行くことを拒否しているのだから。理由を確かめるのも怖い。静かな執務室でこうして立っているだけで、喉が渇いていく。泣きそうな顔を見られたくない。
「わ、私お手洗いに行ってきます……!」
 青年に渡す予定だったファイルを、吹雪は早くこの場を離れたい一心で青年の胸元に思い切り押し付けた。その直後、あまりにも勢いをつけすぎたせいか足元の何かにつまずき、椅子に座っていた青年を巻き込んで床に倒れてしまった。
「だっ、大丈夫ですか司令官っ! すみません!」
 椅子から落ち、仰向けに倒れた青年に覆い被さるような体勢になっている自身に気付き、吹雪は青年を心配すると共に動揺した。
 怒られるかもしれないと思い覚悟していたが、今度は至近距離で目が合った青年の表情は予想と違っていた。吹雪を責めるわけでもなく、ただ頬をかすかに赤く染めながら吹雪を凝視している。いつもは淡々としていて掴みどころのない青年が、吹雪にこんな顔を見せたのは初めてだった。



 鎮守府の外に出ると、波の音が聞こえてくる。辺りはすっかり暗くなり、ここにいるのは吹雪と青年だけだ。
「実は俺、昔から人見知りでさ。初めて会った相手はまず警戒する。だから他人と打ち解けるのにも時間がかかるんだ」
「……そうなんですか?」
 艦娘達への対応を見る限りでは、とてもそうは思えない。誰とでも笑顔で気さくに接しているからだ。大勢の艦娘を指揮する立場として、隠すべき部分はしっかり隠してしたのかもしれない。
「特に、女はみんな女優だから。男を騙すためならいくらでも涙を流せるし、何でもやれる。そこが怖い」
 過去に女性絡みでよほど酷い目に遭ったのか、眉をひそめながら青年は吐き捨てるようにそう言った。女の吹雪を目の前にしても、一切のためらいを見せずに。確かにそんな本音は、とても鎮守府の中では口に出せないだろう。
「世の中みんな、そういう女の人ばかりではないですよ」
「確かに俺の言い方は極端だったかもしれないけど、世の中にはそういう女もいるんだよ。実際に」
 やはり自分の言葉だけでは、青年の中にある偏見をどうにかすることはできない。悲しいほど無力だ。
 海の方向を眺めていた青年は隣にいる吹雪の顔を見ると、
「あんたは女優にはなれないよな」
「えっ」
「人にも自分にも、嘘をつけないだろ」
「うっ……あ、はい……」
「でも、そこがいい。俺はそう思う」
 ずっと素っ気なかった青年からそう言われた吹雪は、急に目頭が熱くなった。執務室では抑えていた涙が次々に溢れて止まらなくなる。
「わ、私……司令官が最近何だか冷たくなって、だから嫌われてるのかと思ってました」
「あんたを嫌ったことなんかない」
「だって、私とふたりでご飯食べたくないんですよね……」
「ああ……さっきの、あれは」
 ジーンズのポケットに手を入れて、青年は身体を揺すりながら俯いた。
「俺と吹雪がふたりでいると、周りが妙な目で見てくるんだよ。それが恥ずかしいっていうか……他の子と話している時は誰も見てこねえのに本当、なんでだよ、はあ……」
 最後のほうは声が小さくなり、独り言のようになっていった。



 夕飯のつもりで食堂を訪れたものの、少し時間が遅すぎたので何か軽いものを食べようという話になった。食堂の隅では叢雲が、ひとりで何かを飲みながら本を読んでいる。青年と吹雪が来たことに気付いたようだが、ちらりと見ただけですぐに視線を本の中身に戻した。
 冷やかされるのが恥ずかしいと言っていた青年も、特に絡んでくる様子のない叢雲の態度に安心したようだ。
「私、いちごパフェにします! 司令官は?」
「俺はチョコレートパフェ」
「甘い物お好きなんですか、意外ですね」
「そうかな」
 もう二度と、こうして青年と食事をすることはないと思っていた。しかも酒だけではなく甘い物も好きという意外な一面も知ることができた。
 長いスプーンでパフェのクリームを口に運ぶ、ごつくて男らしい手。もし触れられたら、意識しすぎて心臓がどうにかなってしまいそうだ。変な妄想をしている自分が恥ずかしくなり、なるべく顔に出ないように努力した。
 青年から好きだと言われたわけでもないのに、内心ではすっかり浮かれている。嫌われてはいなかった、そして吹雪の決して器用とは言えない性格を好ましく思ってくれていた。
 私だけを見てほしいなんて贅沢は言わない。今でも充分に幸せだ。


(後編へ→)




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2017/1/5