敵戦艦の攻撃を受けた直後、艤装が無残に砕け散った。
 全ての時が止まったような気がした。力の抜けた身体が冷たい海に吸い込まれていく。数分前まで共に戦っていた仲間達の声が遠くなる。
 その時、何故かひとりの男の声だけが頭の中にはっきりと届いた。
『……き、吹雪!』
 いつもは感情を露わにすることなく、どんな状況でも冷静に振る舞っていた。そんな彼が今は、こんなにも取り乱しながら名前を呼んでくれている。
 鎮守府で接する日々が長くなるにつれて、最初は人見知りで警戒心の強かった彼は色々なことを語ってくれた。大好きな酒や音楽のこと、プライベートで乗っているらしい自ら改造した愛車のこと。それから……。
(しれい、かん)
 深い海の底に沈みゆく中で、海面に向かって左手を伸ばす。もう永遠に届かないと分かっていながらも。
 やがてこの目で最後に見たものは薬指に光る、一番近くで支えて続けてきたあの男と強い絆を結んだ証だった。



 ここしばらくの間、吹雪には繰り返し見ている夢がある。自分が戦いの中で力尽きて轟沈する……そんな夢だ。しかしこうして日々戦い続けていれば、それがいつ現実になってもおかしくはない。
 しかもその夢に出てくる自分の薬指には、銀色の指輪がはめられている。艦娘として真っ先に思い浮かぶのは、能力の上限を解放すると言われている特別な指輪のことだ。そのシステムは、ケッコンカッコカリというどこか甘酸っぱい名前で呼ばれている。
 今のところこの鎮守府には、指輪を受け取るために必要な練度に達している艦娘はいない。吹雪自身もその資格を得るのは当分先になるだろう。もし資格があったとしても、肝心の指輪を渡される絶対の保証はない。
 吹雪は着替えて朝食を取った後、いつものように準備をして執務室へ向かう。そして開きかけたドアの隙間からは、賑やかな声が聞こえてきた。
「軽巡の多摩だにゃ、猫じゃないにゃ」
「こばにゃんだにゃ! 猫じゃないにゃ!!」
「あんたはどう見たって猫でしょうが! 鏡見てみなさいよ、鏡!」
 盛り上がっているのか争っているのか分からない状況にも負けずに、吹雪は思い切ってドアを開けて中に入る。複数の視線が一斉にこちらに注がれた。軽巡洋艦の多摩、駆逐艦の霞、そして……。
「おはようございます司令官、吹雪です!」
 執務室でひときわ特別な存在感を放つ、大きな机に乗っているのは1匹の子猫。濃いグレーの毛と小さな耳、こちらを真っ直ぐに見つめる黒く丸い瞳。
「おはようだにゃ、吹雪ちゃん」
 人の言葉を理解して流暢に喋り、『こばにゃん』と名乗るこの子猫こそが数ヶ月前、吹雪が所属するこの鎮守府に着任した司令官だ。



 忘れもしない、初対面の日。まだ顔も名前も知らない司令官に初期艦として指名された吹雪は、不安と緊張でどうにかなりそうだった。吹雪自身も着任して間もない立場で、司令官を補佐することができるのか。
 そんな吹雪を執務室で迎えた司令官は、人間ですらなかった。見る者全てを和ませるような、可愛らしい子猫だった。
 机の上に座り、何かのファイルのページを前足で器用に捲りながら、その中身を真剣に読んでいる。
 子猫は部屋の入口で呆然としている吹雪に気付くと目線をこちらに向け、机から軽々と飛び降りて駆け寄ってきた。
『初めましてだにゃ、この鎮守府に司令官として正式に着任した、こばにゃんだにゃ!』
『し、しゃべった!? え、あっ、すみません!! 初めまして、吹雪です。司令官、よろしくお願いします!』
『よろしくだにゃ!』
 何故、軍人どころか人間でもない猫が司令官に? 人間の言葉を話せるという特別な能力を見込まれたのか。今後更に増えていくはずの艦娘達を指揮するという重要なポジションに、この子猫が選ばれた理由は一体……。
 そんなことを考えていると、子猫の両目に鋭い何かが宿るのをはっきりと感じた。
『吹雪ちゃん、こばにゃんのこと信じてないにゃ! 猫に司令官は無理って思ってるにゃ!』
『そ、そそそそんなこと、ないですっ!』
『悲しいにゃ! もう、ぷんぷんだにゃ!』
 子猫はよほど怒ったのか、突然こちらに尻を向けて拒絶のサインを出した。初日から司令官とこんなことになるとは、やはり自分は未熟者だ。
『あの、私ちょっとびっくりしただけで……決して、司令官を馬鹿にしているわけじゃないんです。本当にすみませんでした』
 必死で否定したものの、猫が司令官として着任した事実に対して疑問を抱いたのは確かだった。自分は考えが顔に出やすく嘘をつけない性格なので、先ほども子猫に胸の内を見抜かれてしまったようだ。
 こちらを未だに振り向かないままの子猫に対して、謝罪と共に下げた頭を上げられずにいる。
『……冗談だにゃ! こばにゃん、全然怒ってないにゃ!』
『えっ?』
 その声にようやく頭を上げると、視線の先では子猫が吹雪をじっと見つめていた。
『だって吹雪ちゃんはここに来てからずっと、こばにゃんのこと司令官って呼んでくれてたにゃ! それに誰だって、猫が司令官になるなんておかしいって思うはずだにゃ』
『で、でも私、司令官についていくって決めました! だから大丈夫です!』
『ん〜、ホントかにゃ〜?』
『本当ですっ!』
 怒っているかと思えば、こちらをからかうように接してくる。吹雪を振り回す様子は、猫というよりまるで人間のようだった。



 着任以来、子猫は毎日の建造や戦闘で出会う新しい艦娘を指揮しながら、深海棲艦達が潜む海域を少しずつ突破していった。しかし艦娘を心配しすぎて、最初の頃は艦隊の誰かが小破程度の損害を受けた時点で、母港へと撤退させていた。それでは艦娘達の疲労が溜まりやすくなり、作戦の流れにも影響が出てしまう。なので状況にもよるが、基本的に大破した艦が出たら撤退させたほうが良いという助言をした。秘書艦とはいえどうしても気になり生意気なことを言ってしまったが、子猫は悩んだ末に納得してくれたようだった。
 艦娘達は司令官である子猫の姿にすっかり気を許しているのか、鎮守府にいる時は執務室を訪れて子猫に会いに来る。会話をしたり遊んだりしていると、遠征や戦闘で疲れた心が癒されるらしい。もはや司令官というより、鎮守府のマスコットキャラに近い扱いだ。
 艦娘達との交流を深めながらも、仕事はしっかりとこなす。理想的な司令官だが、建造で現れた戦艦の陸奥を初対面で「むっちゃん」と呼び、周囲をざわつかせることもあった。陸奥のほうは「あらあら、可愛い提督ね。よろしく」とフレンドリーな態度で返していたが。
 午後の演習を終えて執務室に戻った吹雪は、机に座って待っていた子猫からとんでもない告白をされた。
「ずっと黙ってたけど実はこばにゃん、猫じゃなくて人間の男なんだにゃ」
「えっ!?」
「でもそれ以外は……名前も立場も、思い出せなくて何も分からないにゃ。きっと人間だった頃にすごくすごく、つらいことがあって、耐えられなくなったせいでこうなったんだにゃ。それまでの記憶も身体も全部捨てて、こばにゃんは猫になって逃げたんだにゃ……」
「司令官……」
 いつもは吹雪をからかい、振り回す子猫が視線を足元に落としながら暗く沈んでいる。その様子から、子猫が嘘を言っているとは思えなかった。しかし告げられた唐突すぎる話を、どう受け止めれば良いのか分からない。
「あの、司令官は人間だった頃の記憶を取り戻したいとは」
「このまま思い出さない方が、楽なのかもしれないにゃ。でも、いつまでもそれじゃダメな気がするんだにゃ」
 私はこの人を放ってはおけない、という強い思いが吹雪の中に生まれた。……いや、人ではなく猫だ。少なくとも今は。



 阿武隈が旗艦を務める艦隊は、海域の最深部を目前に大きな損害を受けた。かろうじて勝利したものの、6隻のうち響と島風が中破、霞が大破。まともに動けるのは阿武隈、吹雪、若葉の3隻のみ。
 この状況で、司令官である子猫から通信が入り撤退を命じられた。しかし皆が引き返そうとする中でも、霞だけがそこから動かなかった。立っているのがやっとのはずの傷を負いながらも。
「嫌よ……やっとここまでたどり着いたのに、敵に背中を向けて逃げるなんて!」
「そ、そんな! あたしの指示に従ってくださいーっ!」
 阿武隈が半泣きで霞にそう訴えていると、再び子猫からの通信が入った。
『霞ちゃん、撤退するにゃ!』
「うるさい! 私、まだやれるったら!」
『帰ればまた戻ってこられるって、昔の軍人さんも言ってたにゃ!』
 子猫がそう言うと、霞は何か大切なことを思い出したかのように目を見開いた。子猫が霞を説得するために使った言葉は遠い昔、大規模な撤退作戦を指揮し成功させた、ある軍人のものだ。その活躍は長く語り継がれており、鎮守府内でも彼の存在を知る艦娘は多い。その中でも特に、霞と彼は深い縁がある。
「っ、何であんたがあの人のこと知ってんのよ! 猫のくせに……!!」
『もう誰も轟沈なんかさせないにゃ! 今度こそ撤退だにゃ!』
 涙を密かに拭いながら、霞はようやく引き返し始めた。そばにいた若葉が肩を貸そうとしたが、霞はひとりで歩けるから大丈夫だと言って断っていた。
 そんな中、吹雪は子猫からの通信の内容に違和感を抱いていた。
 もう誰も轟沈なんかさせない。聞き間違いではなく、子猫は先ほど確かにそう言っていた。今の鎮守府に来てからの子猫は、艦娘を誰ひとり沈めていない。それどころか轟沈に対してはひどく敏感で、誰かが小破状態になると即撤退させていた。もちろん大破進軍などありえない話だ。
 もしかすると、子猫が失った記憶と何か関係があるのかもしれない。無意識のうちに、少しずつ記憶を取り戻し始めているのだろうか。
 突然、左手に締め付けられるような痛みを感じた。驚いてそこを見ると、薬指の付け根あたりにまるで指輪のような跡が刻まれていた。吹雪はこの指に指輪をはめたことは1度もなく、ただ混乱するばかりだった。
 改めて考えると、自分が海の底に沈んでいく例の夢を見るようになったのは、あの子猫が司令官として着任した頃からだ。そして夢の中で吹雪を呼ぶ男は誰なのかは分からないが、思い出すと胸が苦しくなる。名前も顔も知らないのに、何故こんな気持ちになるのだろう。
 胸の苦しさも指の痛みも消えないまま、吹雪はひたすら母港へと歩き続けた。


(第2話へ→)




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2017/1/1