2月に入ったばかりのこの頃、艦娘達が花を咲かせている話題のひとつがバレンタインだ。
 皆がそれぞれ、この甘酸っぱいイベントに向けて手作りチョコレートの練習をしたり、カタログを開いてどの店のものが良さそうかリサーチしたりと、とにかく準備に余念がない。
 そんな中で吹雪は、先ほど初めて作ったチョコレートの入った紙袋を抱えながら鎮守府の廊下を歩いていた。特にこれを誰かに渡そうと考えていたわけではなく、鳳翔の元で一生懸命作り方を学んでいる睦月の姿を見て微笑ましくなり、そのうち何となく自分も興味を持って参加してきたのだ。
 睦月の他にも磯風も参加していたのだが、何故か浦風と谷風が「もしもの事があった時のために」と言って磯風に付きっきりだったのが印象的だった。磯風が何かを作っている姿を見るのは初めてだったが、もしかすると料理はあまり得意ではないのだろうか。
 型に流し込んで固めただけの簡単なものだが、これを自分の手で作ったというだけで何だか特別なものに思えて、愛着がわいてくる。張り切り過ぎて少し多めに作ってしまったので、いつも仲良くしている吹雪型の皆に感謝の気持ちも兼ねて配ることにした。
 すると曲がり角から、1匹の子猫が姿を見せた。吹雪に気付くと、ぴくっと耳を立てて駆け寄ってくる。濃いグレーの毛と小さな耳、黒く丸い瞳。この子猫は数ヶ月前に鎮守府に着任した、『こばにゃん』と名乗る司令官だ。初めて執務室で出会った頃から人間の言葉を喋り、戦闘では艦娘達に指示を出す。
 見た目は可愛らしい子猫だが、艦娘達が認める立派な司令官だ。
「あっ、司令官! お疲れ様です!」
「吹雪ちゃん、偶然だにゃ! こばにゃん、さっき演習に立ち会ってたところ……にゃっ!? 吹雪ちゃんから甘いにおいがするにゃ!」
 足元にいる子猫が顔を上げて、くんくんと鼻を鳴らしながらじっとこちらを見つめてくる。子猫の瞳はいつも、何も言わないまま吹雪の胸の内を探っているかのようだ。吹雪が分かりやすい性格をしているせいもあるだろうが、子猫相手に何かをごまかすことはできない。
「あっ、これはですね……さっき鳳翔さんのところでチョコを作ってきたんです」
「そ、そのチョコはまさか、こばにゃん以外の男にあげるのかにゃ!? そんなチョコは没収だにゃ!!」
「違います! そんな、司令官以外の男の人なんて私……」
「吹雪ちゃんのチョコほしいにゃ! チョコほしいにゃ! チョコほしいにゃ! ほしいにゃー!!」
 戸惑う吹雪と、そして足元で大騒ぎする子猫に、通りすがりの村雨と荒潮が興味深々という表情を向けてくる。
 今更気付いたが、先ほど子猫に向けて「司令官以外の男の人」という言葉が出てきた自分に驚いていた。確かに以前、子猫は自身のことを実は人間の男だと吹雪に告げていた。最初は信じられなかったが、子猫があまりにも真剣に、そして深刻に語ってくるので無意識に納得していたのだ。
「司令官、形はちょっと崩れているかもしれませんが、このチョコ貰ってください」
 子猫の目線の高さに合わせるように身を屈めた吹雪は、持っていた紙袋を子猫にそっと差し出した。すると子猫は突然騒ぐのをやめ、大人しくなる。
「ん? くれるのかにゃ? 何だかこばにゃん、強引におねだりしちゃったみたいで申し訳ないにゃ。でも吹雪ちゃんがそこまで言うなら、貰っておくにゃ」
 やけに冷静になった子猫はそう言うと、差し出された紙袋の上部を口に咥えてどこかへと走り去っていった。
 子猫がチョコレートを食べても大丈夫なのだろうかと心配になったが、人間の言葉を喋る時点で普通の猫ではないので、とりあえず子猫の判断に任せることにした。



 数日後、早朝から何故か鎮守府の入口あたりが騒がしい。行ってみるとすでに何人かの艦娘達が集まっていて、大声で何かを訴えている誰かを宥めて落ち着かせようとしている。
 その中心には叢雲が硬い表情で立っていた。しかし2度目の改造を済ませている彼女は、この鎮守府に所属している叢雲ではない。吹雪が共に戦っている顔馴染みの叢雲とは装いや雰囲気が全く違う。
「猫の司令官がいるのって、ここの鎮守府よね!? さっさと出てきなさい!」
 まるで鎮守府全体に響き渡るような声で、叢雲が何度も叫んでいる。
「あの子、確かこの前うちとの演習相手の艦隊にいたっぽい」
「立ち会ってたボクらの司令官見て、なんだか分からないけど顔色変えてたね」
「やっぱり猫の提督さんが珍しかったっぽい?」
 夕立と皐月が、吹雪のそばで囁き合う。どうやら訳ありのようで、吹雪は周りに集まっている艦娘達の間を通り抜けて叢雲の前に出る。
「あのっ……私、秘書艦を務めている吹雪です。司令官に何か御用ですか?」
「御用も何も、さっさとここの司令官を出しなさ……っ」
 きつい口調でそう言いながらこちらを見た叢雲だが、吹雪と目が合った瞬間に言葉を失い呆然と立ち尽くした。そして吹雪の左手薬指に未だに残っている指輪の跡を見て、今度は瞳を潤ませる。固く閉ざした唇は、何かを堪えるように震えていた。吹雪はそんな叢雲を前にして、胸騒ぎがしていた。吹雪自身が知らない何かを、多分彼女は知っている。
「司令官は今、急用で手が離せません。宜しければ私が代わりに用件をお伺いします」
 今の状況をごまかすためではなく、紛れもない事実を話すと叢雲は深いため息をついた。



 約1年前、この鎮守府で艦隊を指揮していた青年が執務室で自ら命を絶った。
 叢雲からその事実を告げられた吹雪は衝撃を受けたと同時に、話を聞くために場所を変えて本当に良かったと思った。他の艦娘が知ってしまったら、間違いなく取り返しのつかない事態になる。
 吹雪は叢雲を連れて鎮守府を出ると、海のそばまで歩いた。今の時間帯は人通りもないので、落ち着いて話ができる。しかし今日は、少し波が荒いのが気になった。
 司令官であった青年が亡くなった後、彼の元にいた艦娘達は鎮守府から去ることになった。艤装を下ろして一般の生活に戻った者、他の鎮守府に引き抜かれた者……当時の鎮守府に所属していた叢雲は後者の道を辿り、艦隊の主力として練度を高めながら今に至っている。
 どちらにしても、あまりにも辛い出来事が艦娘達の心に深い傷を残したことに変わりはない。叢雲もその中の1人だ。
「あいつ……小林少佐はちょっと人間不信っていうか、外面は良かったから表面上は司令官として周りと上手くやってたけど、個人的なことを私達にあまり話そうとはしなかったわ。自分の中に深く踏み込まれたくなかったんでしょうね。一部の相手を除いては」
「一部?」
「秘書艦だった艦娘よ。めったに自分の気持ちを露わにしないあいつが、その子といる時だけは別人みたいに優しい目をするの。でもある戦いの中で敵戦艦の攻撃を受けて、秘書艦は海の底に沈んでいった……それから、小林少佐は後を追うように、執務室で自分の胸を刺して死んだの」
 叢雲が声を震わせながら語ると、波の音が更に大きく激しくなった。
 子猫が以前、吹雪に告げた言葉を思い出す。実は人間の男だった。その頃に辛い出来事があって、記憶も身体も全て捨てて猫になった。叢雲の話に出てきた青年との関係が、何故かどうしても気になる。繋がりがあるような気がする。
「さっき、どうして私を見て泣きそうになっていたんですか? あの、勘違いでしたらすみません」
「……あんたが、生きていたって分かったからよ」
 言葉の意味が理解できず混乱する吹雪に、叢雲は更に追い打ちをかけるように続けた。
「私の話に出てきた秘書艦っていうのは、あんたよ吹雪。あんたは確かに1度沈んだけど、死ななかった代わりにあの鎮守府にいた頃の記憶を失くしているの。その指輪の跡のことも、一体何なのか分からないでしょう?」
 突然、吹雪の左手薬指に現れた指輪の跡。これは締め付けるような痛みで吹雪の心を乱し、そして責める。この痛みが吹雪に何を訴えているのか、ずっと知りたかった。
「生前の小林少佐が、あんたに指輪を贈っていたの。今は猫の姿で司令官をしている、あいつがね」


(第3話へ→)




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2017/2/13