ずっと言えなかったこと 冷たい夜風に晒されて歩いていると辿り着いたのは、未来から迷い込んできた自分自身が身を置いている古い宿だった。 矢木のアパートを出てきた今、行く先はもうここしかなかった。しかしいつまでも頼ってばかりではいられない。 雨風さえしのげればどこでもいい、とりあえず朝まで過ごせるところを探さなくては。 そう思って宿から離れようとした時、背後から何者かの足音が聞こえた。それは段々こちらに近づいてくるのが分かる。 「また会ったな」 落ち着いた低い声に反応して振り向くと若い男が立っていた。見間違えるはずがない、19歳の赤木だ。 別れてからまだ1時間も経っていないのに、また顔を合わせてしまった。 「何かあったのか」 「ちょっと通りかかっただけだよ、何でもない」 口から余計なことが出てこないうちに歩き出そうとしたが、肩を掴まれて阻まれる。 「そうは見えねえから、何があったか聞いてんだよ」 「……鋭いね」 赤木は深く息をつくと、男に促されるままに宿へ足を向けた。 こうなってしまうと逃げることはできない。誰にも頼らずに朝まで過ごす決意は崩れてしまい、すっかり冷え切った身体は無意識に温もりを欲しがっていた。 後から部屋に入った赤木は、畳に腰を下ろした男に歩み寄って正面から抱き付いた。 「今夜は、ここに泊めてよ」 「本気か?」 「だから俺と朝まで……いいよね?」 赤木は男にそう囁くと、抱き締める腕の力を更に強くした。隙間なく密着した男の匂いと温もりを感じて、ますます離れられない。 唇を重ねながら男の股間に触れ、まだ勃起していない性器を扱き始めた。厚めの布地越しとはいえ、なかなか反応しないことが気になり顔を上げた。 男は欲情の欠片も感じさせない、静かな目で赤木を見ている。 「俺とこんなことをするの、もう飽きた?」 「飽きてはいねえけど、お前の様子がおかしいのが気になる」 まだ事情を話していなかった。男がアパートを去った後、矢木と気まずくなったことを。 赤木にとって、この男と性交することは自慰のようなものだった。他人ではなく、数年後の自分なのだから。 それでも矢木のほうはそう思わなかったようで、赤木の身体に触れる男を睨み続けた末に部屋を出て行こうとしていた。 好きにしろよ、という言葉は多分本心ではない。本当にそう思っているのなら、あれほど怒りを露わにはしないだろう。 それを分かっていながらも赤木は、まるで矢木への当てつけのようにこの男に抱かれようとしていた。 男は全てを見抜くまではいかなくとも、あのまま性交へなだれ込むのは好ましくないと感じたのかもしれない。 「あの人が相当なひねくれ者だって、お前も知ってるだろ」 「それがどうしたの」 「何だかんだ言ってもお前のこと、誰にも渡したくねえんだよ」 返す言葉が見つからずに口を閉ざしていると、頭を優しく撫でられた。荒れていた心が少しずつ癒され、男の胸元に額を埋めて身を預ける。 この男には随分と助けられた。出会った直後は一方的に警戒していたが、こんなにも素直に甘えることができた相手は初めてだった気がする。 心地良さに深くのめり込んで行くたびに、開いてしまった矢木との溝は大きくなるばかりだ。 自慰だと割り切って今の異常な関係を続けるか否か、赤木はこの場でどちらかを選ぶ必要があった。矢木に知られて揉めた以上、もう先延ばしにはできない。 アパートのドアを開けると、矢木は卓袱台に伏した格好で眠っていた。深夜の寒い部屋で、布団も敷かずに。 飲むのは1日に1本ずつと決めていたはずのビールの瓶が、中身を飲み干した状態で何本も転がっている。 愚かな男だ、と改めて思う。初対面の夜もそうだ。相手への脅し方ばかりが達者で、肝心の卓を挟んだ勝負では心の底から震えるような快楽を得ることはできなかった。 こうして再び会うことがなければ、赤木はこの男の存在自体忘れていただろう。 怒鳴られたり避けられたりと散々な目に遭いながらも、またここに戻ってきてしまった。 非現実な存在とはいえ心地良さを与えてくれた相手に別れを告げ、大人げない厄介者を選んだ自分も人のことをとやかく言えないほど愚かだ。 共に居る限り、くだらない揉め事をこの先何度も繰り返していくに違いない。 「こんなところで寝てたら、風邪引くよ」 何度も肩を揺すって呼びかけていると、矢木は低く呻きながら顔を上げる。赤木と目が合った途端、気まずそうに視線を逸らした。 「本当は俺、お前が他の奴に色々されるのが許せねえんだ」 「やっぱり、そうなんだ……?」 「変な意地張って、ずっと言えなくて悪かった」 酒の匂いが残る矢木に突然抱き締められ、赤木はそれに応えるようにその広い背中に腕をまわした。 雰囲気に流されるまま深いくちづけを交わし、濡れた音を立てて舌を絡め合う。 視線を合わせて小さく名前を呼ぶと、矢木は照れくさそうに笑みを浮かべた。 翌日の放課後、宿に男は居なかった。部屋の隅に置いてあった鞄もない。 何時間か間を置いて再び訪れてもやはり姿はなく、宿の主人に男のことを尋ねてみると、宿代を多めに置いて朝早くに出て行ったという。 多分もうここには戻ってこない、そんな予感がした。 もしかすると元の時代に帰ったのかもしれない。帰る方法が見つかったのだろうか。 もう俺が居なくても大丈夫だな、という男の言葉が胸によみがえる。昨夜の別れ際に言われたそれが、未来の自分からの最後の言葉になった。 赤木はあの男と同じように畳に寝転がり、ここで過ごした時間を思い出しながら目を閉じた。 |