Bitter





ただいま、と声を上げながら玄関の戸を開けた。
自分の家でもないのにこんなことを言うと、家主に渋い顔をされた挙句に嫌味のひとつくらいは寄越されるに違いない。 しかし赤木にとっては居心地の良い場所だった。何の面白みもない学校や、本来の自宅よりもずっと。
暖かい部屋の中に入ると、市川が下半身を炬燵に潜り込ませたまま眠っていた。ふたつ折りにした座布団を枕代わりにして、ずいぶんと気持ち良さそうだ。 絶え間なく雪が降り続く寒い中、学校帰りに時間をかけてここまでやってきた赤木にとっては、そんな様子が少しだけ憎らしい。
足音を立てないように市川のそばへ歩み寄ると、傍らに腰を下ろした。両膝を抱えながらその寝顔を眺める。気難しく愛想の欠片もない男なのにその全てを知りたい、 そして赤木自身の全てを暴いて貪ってほしい。こんな気持ちにさせた相手はこの男が初めてだった。同じ匂いを持っているからこそ、心地良く感じるのかもしれない。
未だに冷えている指で長く伸ばされた白髪、そして首筋に触れた途端に市川の肩が小さく跳ねた。不機嫌そうな低い呻き声と共に、ゆっくりと身を起こしていく。

「また図々しく忍び込みやがって、油断のならねえガキだ」
「鍵、俺のために開けておいてくれたんじゃなかったの?」
「知るか」

慎重な市川にしては珍しく、不用心なことだ。偶然閉め忘れたという可能性もあるが、実際はどうなのか分からない。
もし鍵が開いていなければ赤木は、この寒空の下で凍えていた。戸を何度叩いたとしても、眠っている市川が気付かない限りは中に入れないのだ。 諦めて引き返したとしても自宅に帰る気はなかったので、延々と外をさまよう羽目になっただろう。
皺だらけの手が、赤木の冷えた指に触れてきた。温度を確かめるような動きは愛撫にも似ていて、そこから目が離せない。
市川と赤木の間には、どうすることもできない暗闇が挟まっている。赤木は市川の顔を見ることができるが、その逆は不可能だった。それでも触れ合って身体が深く繋がる ことによって、互いを阻む暗闇を軽く飛び越えてひとつになれた。だから多分、この男と何度か経験した溺れるような激しい性交は無意味なものでも愚かなものでもない。 赤木はそう思っているが、市川自身の考えはどうだろう。
正直言えば性交よりも、黒崎の手で中途半端に幕を下ろされてしまった勝負の続きを強く望んでいた。 しかしいくら誘っても肝心の市川のほうは気乗りしないようで、持て余した時間で結局は淫らな行為に流れてしまう。 博打がもたらす快感とは全く違うものでも、面倒なことは忘れて気の合う男と獣のように激しく求め合うのは悪くない。
赤木が子供だからと言って、変な遠慮をしないところも好きだった。貴重な存在だ。

「冷えているな」
「寒かったからね、雪も降ってたし」

そう言いながら更に身を寄せようとした時、制服のポケットの中身が赤木の動きに合わせて微かに音を立てた。
赤木はそこから中身を取り出すと、それを市川の手に触れさせた。目の見えない相手に物の存在を確認させるために、強引に押し付けるような動作になる。
市川は赤木から差し出されたものの感触を両手で確かめ、眉をひそめながら匂いを嗅いだ。正面でその様子を見ている赤木も、味わったことのあるその匂いや味を無意識に思い出す。

「……チョコレートか」
「何か、今日はそういう日なんだってさ」

ここに来る途中、気まぐれに立ち寄った店で買ってきたチョコレートだ。
女性から男性へ、という甘酸っぱい宣伝文句を掲げた売り場は閑散としていた。店側の努力も空しく、どうやらまだ世間には浸透していないらしい。
ハート型のも売られていたが、赤木が選んだのは何の色気もない板状のものだった。
男だの女だの関係なくとりあえず気に入った相手に渡せばいいのだと勝手に考えて、1番最初に思い浮かんだのが市川だった。

「甘い物は苦手だと、前に言わなかったか?」
「そうだっけ、知らなかったよ」

実際のところ、市川がそう言っていたのを赤木はしっかりと覚えていた。以前に空腹を訴えた時、川田組の新しい若頭が持ってきたという高価そうな饅頭を食べさせられたことがある。 赤木も甘いものはそれほど好きではないので、全て食べきるのに苦労した。ひとつひとつの饅頭は小さかったが、胸焼けしそうなほど甘かった。
今回チョコレートを渡したのも、饅頭の件に対する仕返しも兼ねていた。苦手なものを目の前にして、市川がどのような反応をするか見たかったのだ。
重いため息をついた市川は、包装を剥がしたチョコレートを半分に割ると片方を赤木に差し出してきた。

「買ってきたお前が責任取って、半分片付けな」
「せっかく俺が市川さんにあげたのに」
「貰ったものをどうしようと、こちらの勝手だろうが」

口の端を上げて笑う市川を見て、赤木は密かに舌打ちをした。仕返しに押し付けたものが、まさか自分にも返ってくるとは思わなかった。
仕方なく受け取ったチョコレートを適当な大きさに割り、口に放りこむ。小さな黒い欠片は舌の上でじわりと溶け始め、ほろ苦い味がした。




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2008/2/14