静かに揺れる夜の行方 質素だが、手入れの行き届いた一軒家の前。 見上げた先の空の色が青から淡い橙色へと変わっていく頃、待ち望んでいた男が現れた。 白い杖が、規則的な音を立てながら道路の表面を叩いて男の歩みを助ける。 その男の目は何も映さない。鮮やかな色も光も、人の顔に浮かぶ様々な感情すらも。 「やっと見つけた」 そう言いながら、もう少し力を入れれば折れてしまいそうな細い腕を掴む。 「ずっと探してたんだ。もう逃がさないぜ……市川さん」 掴んだ腕が、一瞬だけ跳ねた。まるで怯えるかのように。 市川は何も言わない。微かに息を吸い込む音だけが、赤木の耳に届いた。 久しぶりの対面に、どんな顔をするかと思っていた。驚くだろうか、それとも怒るだろうかと。 料亭で行われたあの麻雀対決から数週間、ひたすら行方を探り続けた。 赤木の中では、まだ終わってはいなかった。 「こんなところまで追ってくるとは……どういうつもりだ」 「あんたの顔を見たくなってさ」 「手を離せ」 「嫌だね。離したら逃げる気だろ」 「……逃げられると思うか?」 「さすが、分かってるじゃない」 赤木の足元には、白い杖が転がっている。腕を掴んだ時、持ち主の手から落ちたのだ。 杖を持っていてもそうでなくても、逃げる市川を捕まえることは容易い。 掴みどころのない、その心は別としても。 通された部屋の中は、無駄な飾りが排除されたような素っ気ない雰囲気だった。 家具も何もかも、必要最低限のものしか置かれていない。 小さなテーブルの上へ、涼やかな氷の音と共に麦茶の入ったグラスが置かれた。 強引に押しかけてきたとはいえ、一応は客として扱ってくれているらしい。 この部屋で市川は、目が見えないことを感じさせないくらい器用に立ち回っている。 どこに何があるかを、しっかり把握しているのだろう。 麻雀対決では自分の積んだ山を全て記憶し、背筋が凍るような恐ろしいイカサマまでやってのける。 相手が大人でも子供でも容赦しない、その徹底ぶりが心地良かった。 ぬるい空気に満たされた平穏な生活は、この男には似合わない。卓を離れた姿を見ている今、赤木は心底そう思う。 決着が付いた夜以来、こんな日々を過ごしてきたのか。 「それを飲んだら、さっさと帰れ」 「何でだよ、せっかく来たのに」 「お前がいつまでも、ここに居る理由はないはずだ」 「俺は、あんたに会いたかったんだよ。それじゃ理由にならないのか?」 「しらじらしい嘘をつくな小僧、壊れた玩具を笑いに来たんだろうが」 赤木は信じられない気持ちで、正面に座る市川を見上げた。 窓の外はいつの間にか薄暗くなっていて、部屋の中にも陰りを落としている。 それはまるで、今の赤木の心境を目に見える形で表しているかのようだった。 市川は立ち上がり、こちらへ背を向けた。 ―――『お前のような素人に負けたとなれば、この世界じゃ生きてけねえ』 ―――『俺達には、失うものがある』 以前に対戦した代打ちの男の言葉が、何故か頭によみがえる。 実力も存在感も比べ物にはならないが、あれでも市川の同業者だ。 あの言葉は紛れもなく、常に勝ち続けて当然とされる代打ちとしての本音に違いない。 プロが素人に負けるということは、とてつもなく大きなものを失う……例えばそれまでに築き上げてきた名声や信頼、そしてプライドを。 ただの日常においても目に見えないものを取り戻すのは、決して簡単なことではない。 俺があんたを変えてしまったのか、と赤木は胸の内で市川に問いかけた。 黒服に支えられながら部屋の奥へ去って行った、頼りない背中が目に焼きついて離れない。 初めて出会った時に感じた鋭い狂気は薄れ、あのままどこかへ消えてしまいそうだった。手を伸ばしても届かない、遠いところへ。 お前の取り分だと言われて卓の上に投げ出された札束など興味もなく、正直どうでもよかった。 市川との闘牌は赤木にとって、痛いくらいの刺激に満ちていた。まるで全てが凝縮されたような、長く濃密な夜。 忘れられるはずがない。だからこうして会いに来た。 「あんたは、壊れた玩具なんかじゃない」 「お前が言うのか、それを」 「ああ、俺だから言うんだよ」 床に膝をつき、赤木は後ろを向いたままの市川へ更に言葉を続ける。 「あんたが振り向いてくれるまで、何度でも言ってやる」 「……おかしな奴だ」 どうやら訴えは実を結んだらしく、市川はこちらへ向き直ると再び赤木の前に腰を下ろした。 赤木は腕を伸ばし、市川の手に触れた。少しだけ乾いているが、温かい。 勝負の最中にも、1度だけこうしたことがあった。しかしその時は牌のすり替えを阻止するためだったので、今とは目的が違う。 今度は市川が、赤木の手に触れてきた。手の甲から指先にかけて、ゆっくりと滑るように。 それは巧みにじらすような動きで、赤木は思わず息を詰めた。 「細くて小さい、やはり子供の手だな」 市川は低く笑うが、不思議と嫌な感じはしない。 指を1本ずつ、軽く握られたり撫でられたりしているうちに、おかしな気分になってくる。 その目は何も映していないはずなのに、心の奥底まで探られているようだ。 あとわずかでも崩れれば、手や指だけでは満足できなくなる。 重なる温もりをそのままに、赤木は市川に音もなく近づくとその肩に額を乗せた。 乱れる息遣いを至近距離で聞かせてしまうことになるが、それでも構わない。 どうせもう、この行為が続く限りはごまかせないのだから。 |