しげみと矢木さん・1





きゃはははっ、という甲高い笑い声で眠気が覚めた。
斜め向かいでは、周囲の空気も読まずに何かの話で大盛り上がりする女子高生の集団が立っている。 その辺りから大音量で携帯の着信音まで鳴る始末だ。うるさい。
朝の電車は通勤・通学ラッシュのせいで大混雑していた。平日はいつもこうなので、避けようがない。
こうして座席に腰を下ろせたのも奇跡に近く、いつもなら目的の駅まで乗客に押されながら立つ羽目になる。 ひどい時には吊り革に掴まることすらできないのだ。
早く着かねえかな、とうんざりしていると、目の前で吊り革に掴まって立っている女子高生と目が合った。 短めの髪を後ろに流したような髪型の彼女は見るからに真っ青な顔色で、最初は乗り物酔いでもしているのかと思った。
しかし吐きそうな様子も無いので余計に気になっていると、涙目で背後に視線を送っては俯く動作を何度も繰り返していた。 注意深く様子を窺っているうちに、サラリーマン風の中年男が女子高生の背に密着して、短いスカートの裾から手を差し込んでいるのをはっきりと見てしまった。

「おい、お前何やってんだ!」

俺がそう叫んだ直後に電車が止まり、中年男は下車する乗客の波に紛れて逃げていった。
その場に泣き崩れた女子高生と、車内の騒然とした雰囲気を前にした俺は、今日は絶対についてない日だと実感した。


***


夕方、街で用事を済ませてきた俺は再び電車に乗った。
朝にあんなことがあったばかりなので気が進まなかったが、これに乗らないと家に帰れないので仕方がない。 車を持っているのに乗らなかったのは、夜遅くまで飲んでいた酒が抜けきっていなかったからだ。
学生の放課後と重なる時間帯だったので混んでいるかと思いきや、意外にも好きなところを選べるほど座席が空いていた。 この車両には俺の他に2、3人が乗っているだけだ。乗車口に近い端の席に座り、電車が動き出すのを待つ。
発車時間がきてドアが閉まりかけた時、ひとりの女子高生が素早く乗り込んできた。細身で背が高い。 今朝の女子高生と同じ制服を着ていて、よく見ると顔までそっくりだったので少し驚いた。何となくこちらのほうが気の強そうな感じもするが。
女子高生は俺の顔を見ると真っ直ぐに近づいてきて、すぐ隣に座った。 他にも空いている席はたくさんあるのに、知り合いでもない男のそばにわざわざ座る気持ちが分からない。

「あんた今朝の電車で、私と同じ学校の子を助けた人?」

唐突に何を言い出すんだこいつは。女子高生は強く射抜くような視線を向けながら、俺の返事を待っている。 その目に圧倒されてしまった俺は、観念して口を開いた。

「俺は別に何もしてないぜ、痴漢の男には逃げられたし」
「それについてはもう手を打ってるから、いいの」
「手?」
「あの子……ゆきこの彼氏、刑事だから。近いうちに何とかするはず」
「刑事!?」
「私から見ると、ただの冴えないおじさんだけどね。どこがいいのやら」

女子高生と刑事って、どういう繋がりだ。補導でもされない限り関わり合いにならなそうな関係だが。

「お前、あの場に居たのか」
「居なかったけど、派手なスーツのヤクザみたいなおじさんが助けてくれたって聞いたから」
「ヤクザ……おじさん……」

言われた単語を呟きながら、俺は呆然と遠くを見つめた。 まあ確かにその筋の人間と間違われることも少なくないが、よりによっておじさん、って。 ぎりぎり30代じゃそう思われても仕方ないのか?

「ゆきこは、彼氏以外の男の人が苦手なんだ。だから助けてくれたあんたにも、気の利いたこと言えなかったと思うけど」

泣き止まない今朝の女子高生をとりあえず次の駅で降ろして、俺が代わりに駅員に事情を説明した。
被害者本人である女子高生はひたすら、やすおかさん、やすおかさん、と誰かの名前を繰り返し呟くだけで協力的とは言えず、 やっと解放されたのは1時間近く経ってからだった。

「ところであんたは、何やってる人?」
「何、って」

人間やってる、と言おうとしてやめた。 こいつのことはまだよく知らないが、悪ふざけをすると多分ろくなことにならない。そんな気がした。

「麻雀やって、飯食ってる人」
「それって麻雀教室の先生?」
「違う」
「代打ち?」
「近い、っていうか当たってる」
「へえ……じゃあ強いんだ」

女子高生は意味深に目を細める。淡いピンクの唇を笑みの形にして、俺に迫ってきた。

「今度、私と打ってよ」
「はあっ、何言ってんだお前。遊びてえなら他の奴にしろよ」
「本気でやりたいんだけど……あんたと、あるものを賭けて」
「あるもの?」

利き腕1本、と無邪気に囁かれて背筋が凍りついた。
もし負けたら自分が腕を失うことよりも、今時の女子高生がそんなことを気軽に口に出せる事実のほうが恐ろしかった。 よほど麻雀に自信があるのかどうかは知らないが、正直もう関わりたくない。

「場所は、どっかの組長にでも頼んで用意してもらうから。原田のとこでいいかな」
「こら待て! 勝手に話進めてんじゃねえよ!」
「そんな怖い顔しないでよ、矢木圭次さん」
「……な、何で俺の名前」

女子高生は低く笑いながら、カードのようなものを俺に見せる。
上着の内ポケットに入っていたはずの、俺の免許証だった。

「返せ!」

こいつ、いつの間にこんなことを。さっき迫ってきた時だろうか。
普通じゃない神経の持ち主で、おまけに手癖も悪い。ふざけやがって。
女子高生が持っている免許証に手を伸ばしたがバランスを崩し、俺は前に倒れた。 しかも倒れる方向に居た女子高生を、座席に押し倒すような体勢になってしまった。お互いの顔が近い。 もしこの状態でこいつが大声を出して、人が集まってきたら……最悪だ。
しかし女子高生は薄く笑みを浮かべると、俺の頬に触れた。

「私は赤木しげみ……覚えておいて。これは挨拶代わりね」

赤木はそう言って俺の唇を奪った。触れ合った舌先が、かすかに濡れた音を立てる。
こんな時に周りに誰も居ないのは何故だ、とふたりきりの車両で思った。




next

back




2006/10/22