初めての気持ち





まさかまたこの部屋に戻ってくるとは思わなかった。当然ながら出る前と変わらず狭くて汚い、日陰者の自分にはお似合いの部屋だ。
愛用のパソコンは出かける前に初期化をしていた。自殺した後で警察か何かに調べられても問題ないように、ちょっと人には 見られたくない画像や動画も全て消えて、今では購入当時のようにまっさらな状態だ。 何もかも隠すのが目的だったので、バックアップすら取っていなかった。設定なども含めて、これを再び使い慣れた状態に戻すには手間も時間もかかる。
秘蔵のアダルトDVDはかなりの量があるうえに高額だったため結局処分には踏み切れず、わざわざ遠く離れた場所に埋めてきてしまったことも後悔している。
排ガスで充満したあの古びた車が、煩わしいだけのこの世界から連れ出してくれるはずだった。 それから待っているのは地獄か、それとも空虚な世界か。死後の世界など想像もつかないが、自身を殺しているので多分天国には行けない。
遅れて現れたあの迷惑千万な男が邪魔さえしなければ、と思い唇を噛んだ。
何が清浄な空気だ、綺麗事ばかり並べて結局はミツル達を駒扱いする気らしく腹が立つ。
宇海零のせいでこうして生き残ってしまい、死を誓い合った仲間も考えを変えてしまった以上、再び自殺を決行するのはためらう。 所詮はひとりでは死ねなかった臆病者なのだ。


***


零が立てた計画は無謀のようにも思えたが、そこにたどり着くまでの経緯を細かく説明されているうちに、こんな自分にもできるのではないかという錯覚に陥る。
才能の一種なのか、零は人の心を掴む術に長けている。ユウキやヒロシはあの男の口車に乗せられて、今では義賊計画にすっかり乗り気で裏切られた気分だ。
こうなると空気を読めていないのは自分だけのような気がして、苛々した。これから何があっても、あんな胡散臭い男に言いくるめられて心を許したりはしない。 しかし何だかんだと流されて零のそばに居る。自覚がないだけで、知らないうちに零に惹かれているのではないかと思うと、複雑な気分になった。そんなはずはない、馬鹿げている。

「零って自殺とは縁がなさそうなのに、どうしてあのサイトに出入りするようになったのかな」
「天才ならではの悩みってやつじゃねえ?」

ファミレスで注文した料理を待ちながら、ユウキとヒロシがそんな会話を始める。一緒に来た零は、皆の分の飲み物を取りに行くと言って先ほど席を立った。
リーダー的存在である零が、わざわざ自分から使い走りのような真似をする意味が分からない。 いっそミツル達を上から目線で扱ってくれれば、堂々と零を罵ることができるのに。こうやって優しさをアピールして、皆の心を掴もうとしている気がして不愉快だ。

「どうせあいつは、目的のために動かせる駒が欲しかっただけだろ」

ミツルが毒づくと、ユウキが急に慌てたような態度を取った。背後にはいつの間にか、飲み物が入った3人分のグラスを持った零が立っていた。ひとり分足りないのは、 希望の飲み物を零に尋ねられた時にミツルだけがいらないと言って拒否したからだ。

「ぜっ、零! 飲み物ありがとう!」

気まずい空気をごまかすように、ユウキは不自然な明るい声を上げた。ヒロシが引きつった表情で零とミツルを交互に見る。
しかし零はまるで何も聞いていなかったような笑顔で、コーラとオレンジジュースをそれぞれユウキとヒロシに渡す。そしてミツルの前には氷の入った水が置かれた。 残りは零自身の分だと思っていたので一瞬驚いたが、すぐに我に返ったミツルは零を睨んだ。

「いらねえって言っただろ」
「飲まなくてもいいさ。それなら味の好き嫌いもないし、何かの役に立つ」

絶対に飲むものか。気に食わない奴からの好意など受け取りたくない。
それからすぐに注文した料理が次々に運ばれてきて、皆で食べ始めた。ミツルは不機嫌なままピラフをひたすら口に運んでいると、うっかり喉に詰まらせてしまった。 結局零が持ってきた水が役に立つことになり、ミツルにとってはますます面白くない状況になった。


***


店を出ると、帰りが同じ方向であるはずのユウキがこれから用事があると言って、ヒロシと一緒に逆方向へ行ってしまった。 さっさと帰ってテレビでも観ようと思い駅に向かって早足で歩き出すと、背後から聞こえてきた足音と共に零がミツルに追いついてきた。

「何だよ、お前の家はこっちじゃねえだろ」
「家に帰っても誰も居ねえし、寄り道しようかと思ってさ」
「勝手にしろよ、俺は帰るから」

ファミレスでのミツルの言葉は零にも聞こえていたはずなのに、何故こんなふうに何事もなかったかのような態度で接することができるのだろう。普通の神経の持ち主とは思えない。 ミツルが普段から露骨に見せている、零に対する刺々しさにも気付いているはずだ。
いつも繰り返す、子供っぽい抵抗。半ば意地になっているのは分かっている。

「ミツルが俺を良く思っていないのは、分かってるんだ」

急に立ち止まった零が、先を歩くミツルの背後でそう呟いた。その声は今まで聞いたことがないほど静かだったので、思わず立ち止まってしまう。
振り返ると、零は真っ直ぐにミツルを見つめている。そこから何故か目を逸らせない。

「でも俺は面白半分であの場に行ったわけじゃない。ずっと実行できなかった計画に、協力してくれる仲間が必要だった」
「お前なら俺達じゃなくても、ついてくる奴らはたくさん居るんじゃねえのか。さえない俺なんかと違って面も頭もいいし、色々恵まれてるんだからよ」
「俺は自分が恵まれてるなんて、1度も思ったことはない。それに俺の計画に乗ってくれそうな奴なんて居なかった……ミツル達に会うまでは」

人を愛すことも愛されることもなく生きてきた自分には、零の言葉が白々しいものにしか聞こえなかった。 心からそう思っているのか、それともミツルを上手く言いくるめるための演技なのかと考えると、どうしても後者にしか受け取れない。
初対面でもっともらしいことを並べ立てて、ユウキとヒロシを味方に付けたのだから。
1度死んだ人間だからこそ出来ることがある、と零は言っていた。それが振り込め詐欺を繰り返すヤクザ相手の危険な計画。 確かにその辺に居るような、何の悩みもなく楽しい毎日を送っているような人間ならば関わりたくないはずだ。
失敗すればどうなるか分からない。だからこそ零にとっては自殺サイトに出入りしているような、いつ死んでも構わない人間が必要だったのだろう。

「ミツル達のことを駒だなんて思っていない、俺にとっては大切な仲間だ」
「そんな綺麗事、誰が信じるかよ!」

もう零と話すのが耐えられず、ミツルはそう叫ぶと零を置いてこの場から走り去った。ひたすら駅に向かって走る間も、零の言葉が忘れられずにいる。
この胸に生まれてきた不思議な気持ちに戸惑う。あんなに真っ直ぐな目をしてミツルのことを仲間だなんて言ってくれたのは、零が初めてだった。






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2009/1/16