一秒先の未来 マンションに着いて板倉が上着を脱いだ途端、零は驚いて息を飲んだ。 今までは隠れていたので気付かなかったが、シャツの腰より少し上の辺りが握りこぶしほどの大きさの血に染まっていた。 刺されたのなら今こうして平然とここに立っているわけがなく、しかも学校帰りの零を車に乗せて、運転までしてきたのだ。 何故そんなものがついているのか分からない。 板倉は零が無言で向けてくる視線に目ざとく気付いたのか、ネクタイを緩めながらこちらを横目で見る。 「何だ、この血が気になるのか」 「……できるなら、気付きたくなかった」 「まあ、さっき事務所のほうで揉め事があってな。ちょっと巻き込まれただけだ」 日常茶飯事だ、というような言い方だった。板倉自身はどこも怪我をしている様子はないので、その血は他の誰かのものだ。返り血か何かだろうが、これ以上は想像した くなかった。板倉の立場上、そういうトラブルとは無関係ではいられない。今度は自らの血で服を染めることも有り得る。 ヤクザの恐ろしさは、拉致された義賊仲間を救いに行った時に充分に味わった。零はそういう連中から、振り込め詐欺の被害金を奪い取ったのだ。平成のねずみ小僧などと 新聞に書かれて、ちょっとしたヒーロー気分だった。それがきっかけで後から予想外の事態が起こるとも知らずに。 血のついたシャツを脱ぐと、板倉はそれを惜しげもなくゴミ箱に放り込んだ。代わりは何枚でもあるらしい。 そばにあるソファに腰掛けもせずに立ったままの零の頬に、板倉の大きな手が触れる。傷ひとつ見当たらない、逞しい裸の上半身が目の前に迫った。 「俺を心配してくれてるのか?」 「別に……自惚れるなよ」 「お前に心配されるようなヘマはしねえさ、安心しな」 頬に触れていた手は頭へと動き、優しく撫でられた。零が知る限り、板倉は憎らしいほど完璧な男だ。頭も要領も良く、極道の世界でも上手く立ち回ってきたのだろう。 しかし生きていればいつ、何が自分の身に降りかかってくるか分からない。一秒先の未来でさえ、誰にも予想できないのだ。 出会った時は敵同士だったはずが、今ではこんなにも心を乱されている。仲間には絶対に言えない関係を、いつまで秘密にしていられるのか。 危ないことはやめてくれ、とは言えない。板倉は零を好きだと言って抱き締めてくれるが、堅気の世界に戻ってくれと頼んでも多分聞き入れないと思う。 板倉はもし今の仕事を続けているうちに命を落とすことがあっても、進んできた道を悔やむことはない。そういう男だと、付き合っているうちに分かってきた。 「なあ、あんたは何かを恐れたことはないのか」 「何だよ、急に」 「あんたも人間なんだ、ひとつくらいあるかと思ってさ」 弱みも隙も見せない板倉に、怖いものなどないかもしれない。そう思いながらも、何となく興味があって聞いてみた。そんなものねえよ、と笑いながら答える様子が目に 浮かんできたが。実際にそんな答えが返ってきてもおかしくはない。 少しの沈黙の後、板倉は目を細めて笑みを浮かべた。優しいものではなく、何かを企んでいるような感じの。 「怖いものならひとつだけあるな」 「えっ、あるのか」 「お前」 あまりにもあっさりとした口調で言われたので、一瞬どう反応すればいいのか迷った。その言葉の後に何か続くのではないかと思って黙っていたが、板倉は零を見つめたまま それ以上は何も言わない。 「……悪い、もう一度ちゃんと言ってくれないか」 「何度でも言ってやるよ。俺が怖いのはお前だ、零」 「俺? 何で」 怖いのは零だと答えた板倉は、脱いだ上着の内ポケットから煙草とライターを取り出し、口に咥えて火を点けた。ふうっと煙を細く吐き出して、再び口を開く。 「お前は実際、素人同然の連中を上手く使って俺達の組から金を奪い取っただろうが」 「まだ恨んでいるのか」 「恨んでなんかいねえさ、あれは完全に兄さんのミスだしな。俺には痛くもかゆくもねえ」 板倉が低い声で笑う。ガキにつけ込まれるようじゃあの人は今後も危ういな、と言いながら。そのガキというのが零を示していることは、よく考えなくても明らかだ。 末崎が漏らしたカードに関する情報は、仕掛けておいた盗聴器から全て筒抜けだった。どうぞ盗んでくださいと言わんばかりの大甘ぶりに、却って警戒したほどに。 「それだけじゃねえ、今こうしてそばに居るお前がいつ、俺を見限るかを考えただけで恐ろしいぜ」 「あんたは俺が居なくなっても、代わりはいくらでも」 「お前のような奴は、世界中のどこを探しても見つからねえよ。俺が初めて、本気でのめり込んだ男だ」 短くなった煙草を灰皿に押し付けると、板倉は零の唇に触れて指先を浅く埋める。身体中が緊張と、よく分からない熱い痺れに絡め取られて動けなくなった。 板倉の行動も、先を読めずに戸惑うばかりだ。 |