落とし物





歩きながらジーンズのポケットを探った途端、ミツルは青ざめて足を止めた。
そこにあるはずのものが、なくなっている。狭いポケットの中で何度も手を動かしてみても空しく、結果は同じだ。

「ミツル、どうした?」

すぐ隣を歩いていた零はミツルの異変に気付いたのか、立ち止まって顔を覗き込んでくる。 心配そうにたずねてくる零の問いにも、すぐには答えられなかった。額や首筋に変な汗がじわりと浮かび上がる。 休日の街は大勢の人間で溢れている。そんな中でいつまでも立ち止まっていてはいい迷惑だ。

「ち、ちょっと便所行ってくる!」

そう言ってミツルは唐突に走り出し、近くにあったドラッグストアの奥にあるトイレに飛び込んで鍵をかけた。 色褪せたドアに背を預け、未だに止まらない汗や激しく動いている心臓を何とか抑えようとするがうまくいかない。
……ポケットに入れていたはずの、財布がない。いつの間にか消えていた。昼食の後でゲームセンターに立ち寄った時は確かに あったので、その後に入った本屋あたりで落としたのかもしれない。本屋を出てからすでに10分以上は歩いており、もしかすると 今まで通った道で落としたのだろうか。考えれば考えるほど分からなくなって、もう泣きそうだった。
放課後にやっているアルバイトの給料日前なので、財布にはそれほど金が入っているわけではない。肝心なのは財布そのものだ。
ミツルは今使っている財布は、零から贈られた大切なものだった。直接誕生日を教えてはいなかったが、 零はミツルのメールアドレスに入っている4桁の数字がそれだと悟ったらしい。アドレスを決める時には色々考えたが面倒になって、後ろのほうに誕生日を入れたのだ。 教えてもいない誕生日をある日突然言い当てられた時は驚いたが、理由を聞くと拍子抜けしてしまった。
思えばここ数年、誕生日に誰かからプレゼントを貰った記憶はない。零からは高いものではないと言われたが、値段など関係なく飛び上がりそうなほど嬉しかった。 ちょうど、中学の頃から使っていた財布が古くなっていたので買い替えようと思っていたところだった。零が選んでくれたふたつ折りの黒い財布は使いやすく、学校へ 行く時もずっと持ち歩いていた。
そんな大切なものをどこかに落としてしまった。しかも零が一緒に居る時に。
街の中で一文無しになってしまうと、電車に乗って家に帰れないという最悪な事態だ。
もし零に電車賃を借りるなら、財布を落としたことも話さないといけない。それだけは絶対に避けたかった。まずいまずいまずい、と同じ言葉が脳内を駆け巡る。
そんな時、背後のドアが何度かノックされて心臓が止まりそうになった。

「おいミツル、腹でも痛いのか?」
「ぜ、零……!?」
「さっきからお前、様子おかしいぞ」
「ななな何でもないよ、もう大丈夫!」

下手な嘘をついた後、ごまかすために水を流して個室から出ると零が腕を組んで立っていた。何でも見透かしていそうな目で見つめられて、思わず視線を逸らした。 鋭く賢い零を相手に、一体いつまでごまかせるだろう。このままでは電車にも乗れず、隠していてもいずれは知られてしまう。

「なあ、もし腹の具合悪くなかったらジュースでも飲むか。喉渇いたし」
「えっ、いや、俺はいらない!」

慌てて叫びながら目の前で両手を勢いよく振る。本当は自分も喉が渇いていたが拒否するしかなかった。帰りどころか、今から早速ボロを出すわけにはいかない。
財布のあるうちに昼食は済ませておいたのが、せめてもの救いだ。午前中から街に来ているので、さすがに昼は食べておかないと怪しまれてしまう。
ミツルの拒否ぶりが不自然だったせいか、零は何も言わずに背を向けると歩き始めた。ミツルも我に返ってついていく。気まずいせいで隣には並べず、1歩遅れて歩いた。 こんなはずではなかった。財布さえ落とさなければ今頃、零とジュースを飲んだりまたどこかに寄って盛り上がったりで楽しく過ごせたはずなのに。
お互いに無言のまま歩き続けていると、やがて零が立ち止まってこちらを振り向く。気のせいか、零の表情は少し暗かった。

「そろそろ帰るか、ちょうど駅も近いしな」
「零、今日は俺ひとりで帰るから……ちょっと、寄りたいところがあってさ」
「それは、俺が一緒だと行けないところなのか?」

まさかひとりで財布を探しに行くとは言えず、ごめん、と一言だけ呟いて答えた。零がついた重いため息に胸が痛くなる。
電車に乗って帰る零を見送った後、改めて街に出て今日歩いたコースをひとりで辿るという計画を立てていた。自分の手元に戻ってくるかどうかの自信は全くなかったが。
ここから自宅までは、歩くとすれば多分1時間以上はかかる。財布を落としたことに加えて、そんな現実がますますミツルの気分を重いものにした。

「……ミツル、もう1度だけ聞くけど、何かあったのか?」
「え、ない……よ」
「ちゃんと俺の目を見て答えろよ」

視線を逸らし気味なミツルを零が問い詰めてくる。ミツルが困っていたり悩んだりしている時、零は鋭くそれを感じ取ってどうしたのかと尋ねてくる。今までもそうだった。 人の気持ちに敏感な零に比べると自分は鈍感であまりにも子供すぎる。まるで幼稚園の先生と生徒のような関係にも思えてきて複雑だった。
零から貰った財布を落としたことで胸に暗く重いものが渦を巻いて、しっかり目を合わせることすらできずにいる。 しかし零に嘘をついてごまかし続けるのはもう限界だ。身体が小刻みに震え始め、とうとう涙まで出てきた。 思い切って全てを打ち明けると、零は怒りもせずにミツルの肩にそっと手を置く。

「お前、そんなことでずっとひとりで悩んでたのか」
「俺にとっては大きいことなんだ、だって零から貰った大事なものを」
「でもようやく打ち明けてくれたな、あのままじゃ俺も気になって帰れなかったしさ」
「ぜろぉ、本当にごめん」

いいさ、と言って微笑んだ零はその後、ミツルの財布探しにずっと付き合ってくれた。歩いてきた道、寄った店を再び訪れては慎重に足元などを探していく。 誰かが拾って届けてくれたかもしれないので、店に行くたびに店員に聞いて回った。しかしそんな努力も空しく、ミツルの財布は見つからない。
現金の他には捨て忘れていたレシート、レンタルビデオ店の会員カードが入っていた。まさかとは思うが悪用されてはまずいので、店に連絡を入れておこうと思ったが、 肝心の電話番号はカードに載っているので、今の時点ではどうすることもできない。
2時間近く探し続けたが、結局財布は見つからなかった。中身は2000円程度だったが、金額よりも零から贈られた財布そのものを失ったことのほうが辛い。
零から帰りの電車賃を借り、この日は帰宅することにした。親切な誰かが店や警察に届けてくれれば良いのだが。
沈んだ気持ちが晴れないミツルに、向かいの席に座っている零が声をかけてくる。

「力になれなくて、ごめんな。金なくなっちまったし」
「金よりも……零が俺に買ってくれた財布が」

誕生日プレゼントをもう1度贈ってほしいとは言えない。自分が悪いので言うつもりもなかったが、古い財布は捨ててしまったので、代わりのものを見つけなくては。

「財布の代わりに、俺がミツルのそばに居るから。ずっとそばに……」
「零……?」

言い終えると真っ赤になっていく零の顔を見つめながら、ミツルは信じられない気持ちになった。そんな嬉しすぎる言葉、こんな自分にはもったいないくらいだ。
こんなに不安で辛い時でも、零が一緒に居てくれて良かった。心からそう思うミツルの目に、再び涙が浮かんだ。






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2008/11/30