微笑の裏側





机の上で重なってきた手の感触に、一瞬だけ激しく動揺した。
どうしても解けないという問題の解説をしている最中だったが、思わず言葉が途切れそうになってしまう。 想像以上に大きく固い手のひら。夏服の時期に見た腕もかなり鍛えている証拠なのか、14歳にしてはしっかりと筋肉がついていた。
図書館の奥にある学習スペースで、零は工藤涯という中学生に勉強を教えている。涯は携帯電話を持っておらず、自宅の番号も聞いていないので、 会うとなると向こうからの連絡を待つか、この図書館でちょうどよく顔を合わせるかのどちらかしかない。
この図書館で初めて涯の存在を知って以来、その視線を少しずつ意識するようになった。
距離が縮まるごとに想う気持ちは高まり、今でも止まらない。 ちょっとした言葉を交わしたのをきっかけに、零は自分でも驚くほど積極的に食事に誘ったり、放課後は勉強を教えるようになった。 そして涯との淫らな行為が、何度も夢に出てきてしまった。
零が解説を終えた後も、涯は重ねた手を動かそうとはしない。 手の甲から伝わってくる柔らかい温もりは、今度は強く手を握られたことで生々しい熱となる。

「工藤君、手が」
「こうされるの、嫌ですか」
「そうじゃないけど……」
「宇海さんのそういう顔を見ていたいから、離したくないです」

こんなことを真剣な顔で言われて、冷静でいられるはずがない。
身体を鍛えること、本を読むこと、そして普段はひとりで居るのが好きなこと。そんな涯の全てを、零はまだ半分も分かっていない。まだそれほど長い付き合いではないのだ。
それなのにこの前、涯からの告白を受け入れた上に唇まで重ねてしまった。
一途すぎる情熱に流されたと言えば、都合の良い言い訳になるだろうか。しかし告白を拒まず、自分からも舌を絡めるようなキスをしたということは、心の奥底でこうなる瞬間を待ち望んでいたに違いない。
年下の少年を相手に、優等生な仮面の下にある浅ましい感情を晒して失望されるのを恐れていた。だからこれから関係が深まるにつれてどうなっていくのか、 全く先が見えない。

「……言おうかどうか、迷っていたんですけど」
「ん?」
「この前したことのそれ以上を、最近ずっと考えていて」

それはキスよりもっと先にある行為を示しているのか。零は前に見た淫らな夢を思い出して、頬が熱くなるのをごまかせなかった。

「宇海さんが欲しいと本気で思って、だから……を買おうと」
「……何を?」
「その、そういう行為の時に、男が付けるものを」

言いにくそうにしている涯の話を聞いて、コンドームのことだとすぐに分かった。零は男で妊娠はしないのだから、そこまで気を遣わなくてもいいのに。
そして夢にまで出てきたことが、いよいよ現実となって起ころうとしている。零が欲しいと言われて、身体の奥が密かに疼いた。 野暮に遮るものなど必要ない、涯の全てを身体の奥で受け止めたいと思ってしまった愚かしさに、自分が情けなくなる。まるで涯の努力を踏みにじってるようで。

「図書館で宇海さんと別れた後、コンビニで買うつもりでした。でもレジの店員が大声でそれの説明をし始めて、驚いてしまって」
「変わった店員だな、そんなに客に話しかけるなんて」
「どれが付けやすいとか、相手も気持ち良くなれるとか……結局、買えませんでした」

零と別れた後ということは、制服姿のままで買いに行ったのだろう。迂闊と言えなくもないが、店員のほうも一体どういうつもりでそんなことを涯に話したのか。 きっと涯は居心地が悪くなって買えなかったのだ。今も恥ずかしそうに語っている姿を見ていると、顔も知らない店員に対する憤りを覚えた。

「それってどこのコンビニ?」
「宇海さん……?」
「どんな店員だったか、覚えてる? 工藤君に話しかけてきた奴」

そう尋ねながら今度は零が、涯の手を強く握り返した。


***


コンビニのドアが開いたと同時に、いらっしゃいませー、という無愛想な声が聞こえた。
レジには長髪の若い男が立っている。少し前に来た時も同じ店員で、あまり接客には向いてなさそうな無口な印象の男だった。
店の中でコンドームが置いてある売り場に向かい、目についたうちのひとつを手に取ってレジへ向かう。 すると先ほどまでとは別の店員がレジに居た。金髪で派手な感じの男だ。
店員が誰でもやはり買う瞬間は気まずい。思わず店員から目を逸らしてしまう。

「ねえお客さん、このゴムって買うの初めて?」

唐突に金髪の店員が話しかけてきて、頼んでもいないのに詳しく商品の説明をし始めた。
しかもやけに声が大きく、他の客にも丸聞こえだ。ちらちらと好奇混じりの視線も感じる。
涯から聞いた特徴と一致している容姿に、こいつか……と零は眉根を寄せた。
長髪の店員は調子に乗るバイト仲間の様子を呆れ顔で眺めている。おそらく涯の時も同じような状況だったのかもしれない。
再び生まれた憤りを微笑みの裏に隠して、零はとにかく冷静に口を開いた。

「あ……そうですね、他の商品も見てみたんですけど……」

金髪の店員に負けないくらいの勢いで、零は箱の裏に書かれていた成分表の話まで持ち出して語り出す。相手に付けてもらうので、装着しやすいものを選んだということも。
零が語っている間中ずっと呆然としていた金髪の店員は、引きつったような笑みを浮かべながら商品の会計をする。もう先ほどのような余計な話は一切しなく なっていた。実はこの店員を釣るために零もわざわざ制服姿で来たのだ。
金を払って店を出ると、買ったコンドームを改めて眺める。とりあえず買えたのはいいとして、これをどのような顔で涯に渡せば良いのかと複雑な気分になった。




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2009/4/11