うそつきの涙 唇が触れ合う直前、板倉の携帯が鳴った。 甘い雰囲気から一気に現実へと引き戻される。高価そうな黒いソファに腰掛けたまま、零はテーブルの上の携帯電話を手に取る板倉の横顔を眺めた。 ここに零が居ても場所を変えることなく板倉は電話に出て、会話を始める。心が乱されたのは、漏れてきた声が女のものだったからだ。 板倉は零と身体の関係を持っていても、何人かの女との付き合いをやめようとはしなかった。それは仕方のないことだと思う。自分と板倉の関係こそが世間的には異常で、 理解され難いものだと分かっている。それを承知でここまで来てしまったのだ。義賊の仲間への後ろめたさを捨てきれないままで。 もし今の関係に終わりがくるとすれば、どのようなものだろうか。数分が数時間にも思える電話が終わるのを待ちながら、零はぼんやりと考えていた。 やがて板倉は電話を切り、携帯をテーブルに戻す。再び零に向き直り、頬に触れてきた大きな手。待ち望んでいたはずだったそれを、気が付くと零は身体を後ろに引いて 避けていた。 「零、どうした」 「……何でもない」 この胸の痛みの正体が分からない。先ほどまでの気持ちはいつの間にか冷めていて、板倉に身を任せる気分には戻れなかった。 顔を上げた先の時計を見ると、すでに夜の9時を過ぎていた。どちらにしても帰らなくてはならないので、静かにソファから立ち上がる。こちらに向けられている板倉の 視線を避けながら制服の上着と鞄を手に取った。 「今日はもう帰るよ、遅くまで居座って悪かった」 そう言い残すと足早に玄関に向かい、靴を履こうとしたところで追ってきた板倉に腕を掴まれた。振り解こうとしても、掴んでくる強い力がそれを許さない。 視線の先の板倉は、鋭い目つきで零を見ている。その口は閉ざされているが、絶対に逃がさない、と言われている気がした。こういう時、逃げられたことは今まで 1度もなかった。 「大人しく帰すと思ってんのかよ」 「明日も学校があるんだ、あんただって分かってるだろ」 「露骨に避けやがって、さっきの電話のせいか?」 零は言葉を返せずに、抵抗する動きを止めた。肯定してしまえば、女に嫉妬しているのを認めることになってしまう。そうなったところで、良いことなど何ひとつない。 何でもない振りをするのが精一杯だった。 自分は板倉の恋人でも、将来を誓い合った関係でもない。 結婚という行き先のある男と女の仲とは違い、いずれは終わりを迎える脆い縁なのだ。どこかで割り切って付き合わないといけない。優しいくちづけや、とろけそうな 言葉の数々にどんなに夢中になっていても。 それでも板倉の力強さや匂い、温もりも全てが欲しくてたまらないという気持ちは日が経つごとに大きく、確かなものになってしまう。 「あんたが誰と話していても、別にどうでもいい。俺には関係ない」 「まあ、もし俺が女と話してるのが気に入らないとしても、仕事での付き合いもあるし縁は切れねえぞ」 「そんなこと頼んでねえよ! 俺に構わず好きなだけ電話したり会ったりすればいいだろ!」 誰よりも俺だけを見ていてほしいだなんて、絶対に言わない。みっともなく泣いて縋るのも、鬱陶しいと思われるのもごめんだ。 元から開いている年の差はどうにもならないが、できる限り対等な立場でいたい。目の下辺りが熱く痺れて涙が出そうになるのを、唇を噛んで必死で堪えた。 「俺に言いたいこと、何か我慢してんのか」 「……別に、何も」 「いくら賢くても、お前はまだ17のガキなんだ。遠慮なく溜まってること全部ぶつけて来いよ」 先ほどとは一転した優しい声に、本当はすぐにでも甘えてしまいたい。しかしそれは自分の中にある意地が許さない。くだらないと思われても、決して譲れないものだった。 心の奥底まで板倉の存在に満たされて、やがて依存してしまうかもしれない。それがどんなに危険なことか、よく考えなくても分かる。 だからある程度のところまで抑えなくてはならない。本能が理性を上回らないように。常に心の均衡を保てるように。 板倉と距離を置くことができないのなら、そうするしかない。 堪え切れずに溢れた涙が、頬を伝うのを隠しきれなかった。次の涙がこぼれる前に零は抱き寄せられ、板倉の胸に顔を埋めていた。いつも通りの温もりを感じて、自分の 中でずっと張りつめていたものが、緩んでいくのを感じる。 「俺がお前を、そこまで追い詰めてるのか?」 「あんたは何も悪くない……」 「そう言われても、素直に信じられねえよ」 再び板倉と向き合うには、この涙を止めなければならない。そう思っていても勝手に溢れてきて、板倉のシャツを濡らしてしまっている。 身体の力が一気に抜けて、板倉の足元に膝をついた。どこにも吸いこまれなくなった涙が行き場を失い、床に落ちていく。 「好きだ……好きなんだよ俺、あんたのことが」 「零……?」 「だからさっきの電話の声が聞こえてきた時、嫉妬したんだ」 手で涙を拭いながら、そこまで口に出した。とうとう本心を言ってしまい、胸が痛んだ。呆れられてしまうと思いながらも、これ以上隠し通すのは限界だと感じた。 何とか流れている涙を拭き終えて、顔を上げる。すると零と目線を合わせるためか同じく膝をついた板倉が、穏やかな目で零を見つめていた。 「なあ零、自分でも気付いてるか」 「……何が?」 「お前、初めて俺に好きだって言ったんだぜ」 それを聞いた途端、頬が燃えるように熱くなった。実際にその通りで、零は今まで1度も板倉に好きだと言ったことはなかった。こんな機会でもなければずっと言わない ままだった気がする。理由は単純に、恥ずかしかったからかもしれない。 再び俯いてしまった零の頬に触れた板倉が、唇を耳元に寄せてくる。 俺もお前が好きだぜ、と熱っぽい声で囁かれた瞬間に、身体の隅々まで甘く痺れた。 |