少年に関する噂 放課後、通りかかった公園のそばに人が集まっていた。 子連れの主婦や学生達が、怪しいものを見るような目で公園の中を見ているので、零も気になってそちらに視線を移す。 すると真ん中に設置されている水飲み場で、ひとりの少年が頭を洗っていた。 顔を洗うくらいなら何とも思わなかっただろうが、さすがにあそこまですると人目を引いてしまうだろう。 何なのかしらあの子、と零の後ろで主婦同士で囁き合っている。 いつもはこの公園を通らずに別の道を使って帰るのだが、たまたま公園近くの本屋に用事があったので偶然この騒ぎを知った。 水飲み場の蛇口から出る水で頭を洗った後、足元に置いていたタオルを濡らして裸の上半身を拭き始める。 ここからでは遠いので少年の顔はよく見えないが、体格からしてまだ中学生くらいに見えた。 子供とはいえ、人にはそれぞれ事情がある。無関係の人間があれこれ詮索したりする必要はない。それでも安全な場所から好き勝手なことを囁き合うのは、人間ならば よくあること。自分の身には降りかからない他人事なら、噂話の美味しいネタとしか思わない。 時間が経つごとに増えていき無責任に話を広げる野次馬の輪を離れ、零は自宅へと再び歩き出した。 週末の図書館は人が多い。借りたかった本が誰かに先を越されて悔しい思いをすることもよくある。 1度にひとり5冊まで借りられるので、後2冊の余裕がある。せっかくなので普段読まない本にも挑戦してみるのもいいかもしれない。 そういえばこの前授業で習った中国の歴史が、結構面白かった。授業では扱わないところまで色々知りたい。 どこの本棚に何があるかは大体把握しており、迷うことなく目的の本棚にたどり着けた。背表紙に三国志と書かれた分厚い本に手を伸ばすと同時に、自分のものではない 手もそこに伸びてきた。どうやらこの本を求めていたのは自分だけではなかったようだ。 もうひとつの手の主を見ると、零と同じくらいか少し背の低い少年だった。短髪で、学生服を着ている。確かこの辺にある中学の制服だ。 そして顔には額から頬にかけて珍しい形の痣があった。よく漫画で描かれているような、雷の形に似ている。 少年は零のほうを見ると、遅れて手を引っ込めた。あまり表情を変えない、固いというか真面目な印象を感じた。 「俺は後でいいよ、何となく気になっただけだし」 零はそう言って少年に本を譲ろうとするも、相手は遠慮しているのか手を伸ばさない。 そんな様子を見ていると、この前の公園での光景を思い出した。 遠目から見ただけなので自信はあまりなかったが、あの時水飲み場で身体を洗っていた少年に似ている。髪型や体格まで一致していた。 「君、もしかしてこの前公園で」 顔を上げた少年の鋭い視線に驚いて、それ以上は言えなかった。この反応を見るからに、先ほどの予感は当たっていた気がする。 零は興味本位で尋ねたわけではなかったが、少年は公園の外から眺めていた野次馬と同じような人間だと思ったらしい。 考えてみればあの中に存在していた時点で、零自身も同罪かもしれないと気付いた。 こちらがどう思っていても、晒されている側の少年から見れば野次馬への印象は同じだ。 少年は何も言わないまま、零に背を向けて走り出す。 待ってくれ、と言おうとして足元を見るといつの間にか小さな箱が落ちていた。零がここに来た時にはなかったはずのものが。 「これ、君が落としたんだろ」 図書館を出てすぐそばにあるコンビニの近くで少年の姿を見つけて、後ろから声をかける。まさかまた会うとは思っていなかったらしく、こちらを振り返ったその顔には はっきりと驚きが浮かんでいた。 先ほど拾った小さな箱は、煙草だった。零は吸わないので銘柄にはあまり詳しくないが。 少年は煙草と零の顔を見比べ、ようやく口を開いた。 この時、初めて聞いた。年齢の割に落ち着いた調子の少年の声を。 「……何も言わないのか?」 「煙草のこと? まあ、あまり感心はしないけどな」 親でも教師でもない立場で口うるさく注意するつもりはなかったが、近付き難い雰囲気は感じるが不良には見えないので、煙草を持っていたことに少々驚いただけだ。 こちらに差し出された少年の手に煙草を乗せると、20歳前後くらいの柄の悪い男3人が横から現れた。威嚇するように少年を睨み付けている。 少年は怯むどころか、零から煙草を受け取りながら男達を冷やかに見据えた。 「おいお前、こないだのガキじゃねえか」 「今日こそ泣かしてやるよ、絶対許さねえ」 「煙草なんか吸ってるガキには、きつーくお仕置きしてやらなきゃな」 明らかに穏やかではない雰囲気の中、少年は零から受け取った煙草をズボンのポケットに入れると男達に向かっていつでも攻撃できるような構えを取った。 今にも打ち出しそうな拳を見て、ボクシングでも習っているのかと思った。しかし今は呑気にそんなことを想像している場合ではない。 零は少年と男達の間に割って入り、少年を庇うように立つと男達を見上げる。 「いい歳した大人が中学生相手に、恥ずかしくねえのかよ!」 「何だてめえ、邪魔すんな!」 避ける間もなく頬に鈍く重い衝撃を受け、零は地面に尻をついた。男のひとりに殴られて痛む頬を押さえながら顔を上げると、そこには信じられない光景があった。 男3人を相手に少年が、拳ひとつで戦っていた。しかも圧倒的に有利な流れで。顔面に少年の拳を受けた男は、鼻血をまき散らしながら背後へと倒れた。 残りのふたりも同じように片付け、少年の強さに完全に怯んだ3人はおぼつかない足取りで逃げて行く。 立ち上がるのも忘れていた零に、近付いてきた少年が手を差し伸べてきた。 「立てるか」 「ああ、大丈夫」 身体を起こしながら握った手のひらは鍛えているのか、思っていたよりも硬くて厚い。少年の手を借りて再び立った頃には、殴られた頬の痛みは少し引いていた。 「すげえ強いんだな、びっくりした」 「何故俺を庇った? あんたは俺の名前も知らないのに」 「名前なんて知らなくても、助けたかった気持ちに変わりはないさ」 それじゃ、と一言を残して零は少年に背中を向けた。今度はいつ会えるだろうか。まだ名前すら知らない少年の存在は、零の心に深く刻み込まれた。 少年の行動範囲は、あの公園か図書館しか知らない。初めて関わったばかりなのに根堀り葉堀り尋ねるわけにもいかないので、今後は成り行きに任せるしかなかった。 「俺は涯……工藤、涯」 数歩進んだ時、背後から声が聞こえてきた。振り向くと、まだ立ち去らずにそこに立っている少年が、真っ直ぐに零を見ている。 まだ涯の全てを知ったわけではないが、人に対して簡単に心を開かない雰囲気があったので、向こうから名乗ってくれたのは意外で嬉しかった。 「俺は宇海零、またどこかで会えたらよろしくな」 零が名乗ると涯は小さく頷き、走り去って行く。今日は背中を向けられてばかりだな、と苦笑しながら遠ざかる学生服の背中が見えなくなるまで眺めていた。 |