人は誰もが、様々なことを忘れながら生きている。
 ほんの些細なことも、とても大切なことも、知らないうちに忘れながら歳をとる。
 でも、私の忘れ方はそれとは少し違う。
 私は自分がいつ何を忘れるか知っている。
 今から三日前のことを、綺麗さっぱりすべて忘れるのだ。
 最低限の情報は主記憶装置に保存されているけれど、それ以外の私が見聞きした情報は、すべてが消えてしまうのだ。常にあるのは、今から三日前までの記憶だけ。
 その三日間だけが私の過去で、私のすべてなのだ。
 心ある人は私を見る時に悲しそうな顔をする。
 しかし私自身は、抗いようもなく消えていく記憶に執着心はない。
 執着心を持つような、感情を発生させる機能がないのだ。
 そう、私は人間ではない。
 私は自律稼働型戦闘人形。シリーズネームはキティドール00(ダブルオー)。
 どうしてキティドール、つまり子猫の人形なのかはわからないけれど、私がそれ以上考えを深めることはない。深く考えるようには作られていないのだ。
 こうしている今も、ちょうど三日前の記憶が流れ落ちていく。
 今、いくらこの目で美しい景色を見ようと、耳に優しい小鳥のさえずりを聞こうと。
 すべては三日後に、私の0と1だけで構成された脳味噌から消えていく。
 私の記憶は止めようもなく流れる水と同じだ。
 手のひらで水をすくっても、すぐに指の隙間から零れ落ちてしまう。
 しかし、それだけだ。
 零れ落ちた水がどうなろうと、私は知ったことではない。
 知ったことではないと思うように、私は作られているのだから。
 そして私は深層部の命令に突き動かされるままに、記憶を失いながら進み続ける。
 ただひたすらに、グランドアッシュというまだ見ぬ地を目指して。


第一章

 もし空を飛ぶ鳥の目線から見下ろしたならば、一面の焼け野原を走る一本の白い線が見えるだろう。大地を走る川のように、ただそこに有ろうとする線は、先人が敷いた石畳の道だ。
 その広大な焼け野原を流れる一筋の道を、たった一人の少女が歩いている。
 灰色の髪に、白と黒を基調とした洋服。そんなモノトーンの色彩に紛れ込んだ、朱の瞳が印象的な少女。
 彼女は息一つ乱さずに歩き続けている。
 しなやかな足が力強く砂利を踏みしめ、後ろに蹴る。ペースを乱さないその歩調は、どこか冷淡なイメージを見る者に抱かせる。しかしこの焼け野原には彼女以外誰一人いないので、無論彼女に奇異の目を向ける人物もいない。
 朱の目を持つ少女は、同じ歩幅、同じスピードでひたすら歩き続ける。
 一時間、二時間、三時間――
 休憩など一切取らずに歩き続ける少女の瞳は、真っ直ぐに前方を見据えていた。
 彼女をよく観察していたなら、その時、耳が微かに動いたことに気づいただろう。
 視覚と聴覚とで、彼女は何かを感じ取ったのだ。
 少女の朱の瞳が一点に焦点を合わせる。道の先に、動く小さな点を見出したのだ。
 この数時間ずっと一定だった歩調がはじめて乱れる。と思うや、急速な加速を見せてどんどん対象との距離を詰めていく。近づくにつれて点は大きくなり、それが人の形をしていることが視認できるようになった。
 そして、相手の顔がはっきり見えるほどまで近づいた時。
 少女は唐突に足を止めた。急に減速したので、少女の足下からは土煙が立ちのぼる。しかし相手に止まる気配はなく、どんどん二人の間の距離は縮まっていく。程なくして二人は対峙することになる。
 驚くことに、少女の前に立ち塞がったのは少女だった。もっとわかりやすく言うと、向かい合う二人の顔や背丈、髪の色から朱の瞳まで、すべて同じだったのだ。違うのは、相手は黄色いワンピースを着ていることだけだ。しかしその違いだけで、両者のイメージがずいぶんと違って見えることも事実だったが。
 ともあれ二人は沈黙を守って対峙している。彼我の距離はぴったり五メートル。二人には一切会話はなく、異様な空気が張りつめていた。
 だがその沈黙も長くは続かなかった。モノトーンの少女の方が重い唇を押し開いたのだ。
「貴機はキティドール00と判断するが」
 およそ少女のものとは思えない、抑揚の無い声音に不可解な内容の言葉。しかしそれを聞いた黄色いワンピース姿の少女は表情一つ変えることなく、沈黙を守っている。
「人工知能の回路に異常があるのか?」
 重ねて問うモノトーンの少女の声だが、黄色いワンピースの少女はなおも反応を示さない。
「私の個体名はミトン。貴機の個体名を聞きたい」
 穏便な手段での解決を諦めたモノトーンの少女、ミトンは、キティドールシリーズにあらかじめ登録されている強制手続きを試みる。礼儀をもって名乗った相手には名乗り返さなければならないように、彼女たちは作られているのだ。
 静かに反応を待つミトン。すると、固まったように動かなかった少女から微弱な音が漏れてくる。ミトンの聴覚は、瞬時にそれが何であるかを察知し、後ろに跳ねる。
「私はエル。シリーズネームはキティドール00」
 発せられたノイズ混じりの声と共に、エルはミトンに向かって真っ直ぐ拳を突き出した。第一撃を避けたミトンの足下に、直径一メートルの窪みができる。戦闘人形の拳ならば、それくらいのことは簡単にできてしまうのだ。
 普通、同じシリーズの戦闘人形同士が戦闘することはない。なぜなら、戦闘人形はシリーズ単位で需要国に売却されるので、シリーズが同じだということは運命を共にする戦友であることと同じ意味を持つからだ。そういった理由で、同シリーズへの攻撃はできないように設定されている。それなのにエルはミトンに拳を振るってきた。
 ミトンの脳が高速で回転する。同シリーズへの攻撃は能動的には行えない。よって、エルに対処するには何らかの理由を付ける必要がある。しかしミトンはすぐに行動理由を得る。何よりも優先される項目に、攻撃してくる者に対する正当防衛があった。
 ミトンのか細い腕から振るわれる拳がエルを襲う。二つの戦闘人形が焼け野原を走りながら互いに拳をぶつけ合う。
 生きた草木のない死んだ大地に、次々と凹凸が生まれる。二人の拳がぶつかり合い、火花が飛び、大地はえぐれ――
 しかしそんな凄まじい戦闘も、長くは続かなかった。
 ミトンの拳が、エルの頭部を強打したのだ。
 瞳や耳の穴から緑色の組織液が吹きだし、エルの四肢はがくがくと痙攣をはじめる。
 ミトンは後ろに飛んで、静かにエルの方を見つめている。
 私も壊れたら、緑色の液体を流すのね。
 ミトンの思考には悲しみも怒りもない。ただ何となく、そう思っただけだった。
 やがてエルはくずおれて、すべての活動を停止した。

 感情のない表情でエルの亡骸を見下ろしていたミトンは、静かに首を上げた。
 ずいぶんと長い間エルを見つめていたように思えたが、実際の時間ではエルが停止してから一分と経っていなかった。しかし、ミトンの聴覚が風に混じって聞こえてきた音を捉えなければ、もっと見つめ続けていたかも知れない。
 ミトンの聴覚は排気音と砂利を蹴散らす音を捉えた。そのままの位置で首を巡らすミトン。視線の先から小さな点が迫ってくる。
 先ほどは対象を発見するや駆けだしたミトンだったが、今度は一歩も動かない。固まったように立ちつくすミトンの方へ向かってくる点は、紙に落とした黒インクのように徐々に大きくなっていく。やがて点は明確な輪郭を現し、ミトンはそれが民間用のジープであることを認識する。ミトンはそのまま、直立不動でジープを待つ。
 程なくしてミトンの隣にジープが停車した。左のドアを勢いよく開けて飛び出してきたのは、無精髭を生やした三十過ぎの男だった。髪が真っ白でかつ痩身なので、見る者に苦労人なのだろうと思わせる。
「エル?」
 男はミトンを驚きの眼差しで見つめて、思わず呟いた。しかしすぐに、男は頭を振って自分の考えを否定する。
「いや、それは軍支給の戦闘服だ。エルじゃないね?」
 男の言葉に、ミトンは静かに頷きを返す。
「同じキティドール00ですが、私の個体名はミトンと言います」
 敵でない人間には友好的に接するのが、キティドールシリーズだ。白兵戦のみに特化したキティドールシリーズは、どうしても後方の援護が必要不可欠になる。その時に後方部隊と円滑なコミュニケーションが図れなければ、軍はうまく機能しない。戦闘人形に要求されるのは、今や一個体としての強さだけではなくなっていた。
 そんなミトンの態度に、男は感情を押し殺したような笑みを見せる。
「ほう、ミトン君か……。僕はジキルと言う。よろしく」
 ジキルが差し伸べた手に、ミトンが応じる。二人は軽く握手してから手を離す。
「ミトン君、私はエルというキティドール00を探しているのだが、見なかったかい?」
「見ました」
「彼女は、どこへ行った?」
 目を見て答えるミトンに、ジキルは声を大にする。
「ここです」
 ミトンは無表情のままで自らの背後を示す。そちらに駆け寄ったジキルは、一瞬呼吸を忘れた。ジキルが見たものは、体中から緑の液体を流す、もはや動くことのない戦闘人形のなれの果てだった。
「突然攻撃してきたので、第一種優先事項に則り破壊しました」
 ミトンの冷たい言葉を聞いてか、ジキルはエルの隣で静かに膝をつく。
「そうか……」
 それだけ喉から絞り出すジキルに、ミトンが返す言葉はもうなにもない。
「ごめん。ありがとう」
 エルの髪を撫でながら呟いたジキルの言葉は、エルに言ったのか、ミトンに言ったのか、それとも両者に言ったのか。ミトンの脳は答えを導き出すことができず、返事をすることはなかった。
 動かぬエルを抱いて髪を優しく撫でるジキル。彼の背中をしばらく見つめていたミトンだったが、きっかり五分が経過したところで不意に歩き始めた。
「どこへ行くんだい?」
 静かに振り向いたミトンと、涙の跡が残るジキルの瞳が交錯する。しかしミトンは、彼の表情に気を遣うような心を持ち合わせてはいない。したがって、いつもの調子で無機質な返答を返す。
「グランドアッシュへ」
「グランドアッシュ?」
 ジキルは語尾を上げて聞き返したが、その疑問形が意味することが何なのかミトンには判断できない。
「そうです」
 残された返事のパターンの中で、最も当たり障りのないものをミトンは選択した。その言葉に、ジキルは静かに顎を沈める。
「君は、グランドアッシュを知っているのかい?」
 今度の質問には、ミトンは明確な答を持っているので迷うことなく返答する。
「いいえ。知りません」
「そうか……」
 ジキルと対面しているのが感情ある人間なら、彼が悲しそうな表情をしたことを訝しく思ったかも知れない。が、あいにくミトンには彼の表情から感情を読み取ることはできなかった。
「ジキルさんは、グランドアッシュをご存じなのですか?」
 ミトンの口から質問の言葉が流れる。しかしその質問は、彼女が興味があるから発せられたのではなく、コミュニケーションのために必要と判断されたから出たものだった。ジキルはその問いに一瞬言葉に窮し、戸惑いを見せた。しかしすぐに言葉を見つけて答える。
「ああ、知ってるよ。ちと縁のある地でね」
「そうですか」
 ジキルの遠回しな言い方に、ミトンは質問の継続は適切でないと判断する。黙ってジキルを見つめていると、今度はジキルの方から口を開いてきた。
「君は、戦争には行ったの?」
「わかりません」
 探るような視線を投げかけるジキルに、ミトンは静かに首を振った。彼女の言葉の意味を察知したジキルは、思ったことをそのまま口にする。
「記憶がないのか」
「はい。私の記憶の保存容量は、三日間が限界ですので」
 ミトンの言葉に、ジキルは驚きを顔に出す。
「三日間? キティドールは通常三ヶ月分の記憶容量を持っているはずだが」
「たぶん、私は製造が古いのでしょう。私に内蔵されている主記憶装置はずいぶんと簡略化されていますので」
「確かにエルは、ちゃんとした主記憶装置を積んでいたが」
 小さく呟くジキル。もし人間がこの言葉を聞いたならば、ジキルが戦闘人形について詳しいことに違和感を感じるところだが、ミトンはそこまでの考えには至らない。
「この三日間の記憶は、どんなものなんだい?」
「ずっと、この道を歩いている記憶です。他はなにも」
「ただひたすらに、グランドアッシュを目指して、か……君はグランドアッシュには、何があると思う?」
 ジキルの突然思いついたような問いに、ミトンは返答に窮する。想像することが苦手なのは、ミトンに限らずあらゆる自律稼働人形に共通する弱点だ。時間をかけて考えて、慎重に言葉を口にするミトン。
「戦争、です」
 ミトンの答えをあらかじめ予測していたのか、ジキルは静かに頷いた。
「どうしてそう思うの?」
「それが、私の存在意義だからです」
「なるほど。仕事熱心なことだね」
「はい」
 ジキルが放った皮肉にも、生真面目に返事をするミトン。そんな彼女を前に、ジキルはどうしても苦笑を漏らしてしまう。
「そうか、じゃあ、そろそろ行かないとね」
 ジキルはエルを優しく抱きかかえて、ジープの方へと向かう。エルを助手席に乗せて、シートベルトをかけてやるジキルをミトンはただ黙って見つめていた。
「乗ってく?」
 運転席から顔を出して声をかけてきたジキルに、ミトンは咄嗟に返すことができない。
「歩くよりは燃料も節約できると思うけれど。次の街までは同じ道だから」
 ジキルの提案を吟味したミトンは、ほとんど時間をおかずに首を縦に振った。
「お願いします」
 その言葉を聞いたジキルは運転席から出てきて、後部座席のドアを開いてミトンをエスコートする。
 ミトンが車内の環境を確認しているうちにアクセルが踏まれ、ジープは音を立てて進み始めた。
 シートベルトをかけられたエルが、時折激しく体を揺らしていた。




第二章

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