第二章

「ここでお別れだね」
 うらぶれた街の入り口でジキルは後部座席のドアを開いた。すっかり夜も更けて、街は不気味なほど静まりかえっていた。ミトンは薄汚れた歩道に足を下ろした。
「わかってるとは思うけれど、この街を抜けて真っ直ぐ西へ向かえば、そのうちグランドアッシュに到着するから」
「はい。わかりました」
 ミトンの変化しない顔を何とも言えない表情で見つめるジキル。彼はミトンにかける別れの言葉を迷っていたのだ。
 幸運を祈る、か。頑張れ、か。それとも――
 静かに頭を振る。ジキルはとうとう考えるのを諦めた。
「じゃ、無事に到着すると良いね」
「ジキルさんも」
 窓越しに見たハンドルを握るジキルの顔は、どこか悲しげだった。だがやはり、ミトンにはその表情を読み取ることができなかった。
 しばらくジープの去る方向を見守ってから、ミトンは歩き始めた。
 一刻も早くグランドアッシュへ行かなければ。
 おまけ程度の小さな主記憶装置が、彼女をしきりに駆り立てる。
 ――行かなければ。
 ミトンは歩道を力強く歩む。同じ歩幅、同じスピードで、白と黒の洋服を静かに揺らしながら。
 月の光も雲に遮られた道に、人影はない。長く続く戦争のせいで人口が減ったのか、治安の悪化で夜は外出できないのか。たぶん、両方が原因だろう。
 空気が湿気を帯びている。ミトンは心持ち足取りを速める。
 雨になる。
 雨は戦闘人形の体に良いものではない。少し雨に打たれた程度でどうこうなるわけではないが、それでも機能は落ちる。人工表皮の温度が奪われれば、温度を保つために無駄なエネルギーを使うことになる。人間にとっては恵みの雨とも言うが、彼女らにとって雨が降って良いことは何一つないのだ。
 そう思っている矢先に、ミトンの手に冷たいものが当たった。雨粒だ。瞬く間に雨は勢いを増して、リズミカルな雨音が町中を支配する。
 ミトンは表情を変えるわけではなかったが、民家の軒下に入って雨を避けながら歩く。それでも歩調は変えずに、同じ速度を守り続ける。
 そんな時。
 雨音の間から何かの鳴き声が聞こえてきた。しかし、ミトンがそれに気を逸らすはずもなく、歩みを止めることはない。
「ワンッ!」
 しかし今度はよりはっきりとミトンの人工鼓膜を振動させた。どうやらミトンの進行方向に生き物がいるらしい。だからといってミトンが回り道をするわけもなく。
「ワンッ!」
 遂にミトンの前に姿を現したそれは、どこにでもいるような茶色い犬だった。いわゆる雑種犬だ。
「ワワゥンッ!」
 犬に立ち塞がれて、ミトンはようやく足を止める。電気の消えた民家の軒下で向かい合う一体と一匹。その間に奇妙な空気が流れる。
「……どうしたの?」
 数十年前ならば犬に話しかけるミトンを見て微笑ましい光景だと思う人がいたかも知れないが、この時代で動物に語りかけることはごく普通だ。猫や犬といったペットが人語を理解することは科学的に立証されているのだ。
「ワンワンッ」
 ミトンはしゃがんで犬と目線を合わせる。しかし、いくら瞳を覗き込んでも犬の気持ちはわからない。犬は人語を理解できても、人が犬語を理解できなければ、対等なコミュニケーションは成立し得ないのだ。
 ミトンは無言で立ち上がり、犬の横を雨に打たれて通り抜ける。犬の相手をしていても仕方がないと判断したのだ。
 雨音を聞きながら歩くミトン。ペースを上げた彼女は、程なくして街の外れまで辿り着いた。
 ――しかし。
「ワンッ」
 ミトンは静かに後ろを振り返る。気配はずっと感じていたが、そこには先ほどの犬がしっぽを振りながらミトンを見つめていた。愛らしい瞳を向けていたが、ミトンには何の感動もない。しかし、コミュニケーションを図るように設計されたキティドールの宿命は相手が犬であれ適応される。ミトンは雨に打たれながらもしゃがんで、犬の首に付けられた小さめの首輪を外す。
「ドイルって言うの?」
 首輪に刻まれた名前を口にすると、犬はまた一つ元気に吠えた。
「そう。それでドイルは、私にどうして欲しいの?」
「クゥゥン……」
 ミトンの言葉に、ドイルは鼻を鳴らしながらミトンにすり寄ってきた。雨に濡れた毛はあまり清潔ではなかったが、ミトンは気にせずに抱いてやる。
「捨てられたの?」
 問いかけに、悲しげに鳴くドイル。戦争下の現在ではよくある話だ。いや、捨てられたドイルの場合はまだ良かったとさえ言える。多くの犬は、食料に困った飼い主に食べられてしまっていたからだ。
「そう……でも、私はグランドアッシュへ行かないといけないから相手をしてあげられないの」
 静かに語りかけるミトンに、ドイルは濡れた瞳を向ける。しかしミトンはドイルを下ろして立ち上がる。
「あなたはあなたで生きなさい。考え方を変えれば、あなたは自由を得たとも言えるんだから」
 ミトンの口から出た言葉は、意図したものではないものの、皮肉なものだった。ミトンは一生自由を得ることはないのだ。エルのようにいつか果てるその日まで、戦闘人形が解放されることは永遠にない。
 ミトンは夜の道を西へ歩き出す。また、焼け野原が広がる中の一本道だ。この世界にはのどこを見渡しても、今や同じような景色しか残されてはいない。
 その先にあるグランドアッシュとは、どんな場所なのか。
 ミトンは焦がれるように、その地をひたすら求めるのだ。
 三日前の記憶を失いながら。

 夜が朝に取って代わろうかという節目の時刻。
 仄暗い世界には未だに雨が降り注ぎ、空を重そうな雲が埋め尽くしている。
 一晩中歩き通したミトンの前方には、ただ果てしない道が一本延びているだけだ。空とミトンの灰色、焼け野原の赤茶けた土。そんな色彩に乏しい世界で、別の色を見つけることは容易い。
 一つにミトンの瞳の朱。そしてもう一つに、ミトンの後ろをついてくる茶色の――
「ドイル、なぜついてくるの?」
 街からずっと相手にせずに歩いてきたミトンだったが、無言の時間が長すぎて、とうとうコミュニケーションを取るようにという命令が中枢から下されたのだ。
「ワゥン」
 弱々しい声で鳴くドイル。無理もない。夜通し雨に打たれて歩いたのだ。機械の身体でも持っていない限り、当然体力を消耗する。
「でも、ここまで来てしまったら放って行くわけにもいかないし」
 考えるミトンの足にすり寄るドイルの身体から、微かな暖かさが伝わってくる。
「仕方がないわね。次の街で飼ってくれる人を探しましょう」
「キャウン!」
 一声強く鳴いて、ドイルは先に立って歩み始めた。ミトンもすぐに歩みを再開する。
 空はどこまでも灰色で、雨が止む気配はない。道の先に、街は豆粒ほどにも見あたらない。
 それでもミトンとドイルは歩き続けた。ミトンの一定のペースに遅れず続くドイル。ミトンはドイルを気遣うことなく、休憩もしないので、ドイルの体力はどんどん消耗していく。それでもドイルは歩みを止めない。ミトンの踵だけをじっと見つめて、一歩一歩足を進める。
 街の姿が見え始めたのは、雲がぼんやりと赤くなり始めたころだった。雨は未だに降り続いていた。ドイルがとうとう座り込んでしまったので、ミトンが抱えて歩き始めることになった。腕の中で縮こまるドイルは冷え切っていて、生きているのが不思議なほどだった。街に着くまでに死ぬかも知れないとミトンは思ったが、しかしなんとか息のあるうちに街にたどり着くことができた。
 人形用の公共宿舎に入ったミトンは、スープと液体燃料を頼んでから風呂に入った。ドイルを暖かい湯で満たした浴槽に浸からせて、自分は各部の点検と整備作業をする。長時間雨に打たれたので、熱を保つ回路がショートしている可能性を想定していたミトンだったが杞憂に終わった。特に問題箇所はなく、人工表皮の洗浄だけをしっかりと済ませた。ドイルと一緒に浴槽に浸かると、お湯が溢れて排水口から流れていった。
「まるで私の記憶みたいね」
 流れるお湯を見つめながら、ミトンは無表情に呟いた。ドイルはすっかり元気になって、バシャバシャとお湯を叩いている。
「新しい記憶が刻まれると、古い記憶が流れ去っていく。いつまでもその繰り返し」
 別に感傷に浸っているわけではなかった。ミトンの人間に似せた口からは偶然を通り越してそんな言葉が零れただけだった。
「さ、上がりましょうか」
 何事もなかったかのようにドイルを抱えて浴槽から出るミトン。彼女の足取りにためらいはない。彼女にとっては、この一瞬さえ三日後には消えてしまう経験に過ぎないのだ。
 バスタオルで身体を拭いた一体と一匹は、部屋の前に置かれていた液体燃料とスープをそれぞれ口にする。ドイルは美味しそうにスープを舐めたが、液体燃料を飲むミトンは作業的に飲み下すに過ぎない。味まで感じるほどには人間に似せて作られていないのだ。
 食後はすぐに電気を消し、ベットに横になるミトン。彼女の記憶する三日以内では、ベットで寝た経験はなかった。人形が横になる理由はないし、まして彼女にはあえて眠る必要すらないのだ。宿を取ったのも、ひとえにドイルのためなのだ。
 ドイルもベットに飛び乗ってきて、ミトンに寄り添って丸まった。綺麗になったドイルを抱きしめると、暖かさが伝わってくる。
「明日は新しいご主人様を探しましょうね」
 やがてドイルは眠りにつき、ミトンも微動だにしなくなる。睡眠の必要はないと言っても、人工筋肉や回路を休ませる必要はある。不眠不休で働けばその分寿命が縮まるのは、人間も人形も同じだ。
 雨音だけが世界を包む中停止したミトンは何一つ考えてはいない。
 その間も彼女の記憶は消えていく。逃れようもなく、静かに確実に消えていくのだ。
 降った雨のように行き着く先があるわけでもない、流れた記憶はいったいどこへ向かうのだろうか。

 ミトンは太陽が南中する正午ちょうどに目を開いた。窓の外は薄暗く、雨も降り続いているために太陽は確認できない。だが、真昼であることは時計が内蔵された彼女には手に取るようにわかる。
 ミトンがベットから足を下ろして立ち上がると、それを敏感に感じ取ったドイルが目を覚ます。
「おはよう。寝坊しちゃったわね」
 口ではそう言うミトンだったが、起動時間を正午に設定していたので正確な意味での寝坊ではなかった。ドイルの元気の良い鳴き声を聞いてから、ミトンは先になって扉を開けた。
「じゃあ、行きましょうか」
 ドイルが隙間をするりと抜けた直後、ミトンの手によってドアが静かに閉められた。
 この宿に泊まったことも、じきにミトンは忘れるだろう。

「すみません、この子の引き取り手を探しているのですが……」
「ああ、うちは間に合ってるよ」
「すみません、この犬の飼い主になって下さいませんか?」
「おいおい冗談だろキティドール、このご時世に犬を飼えだと? 食料としてなら大歓迎だがな」
「すみません、すみません――」
 一軒一軒扉を叩いて訪ねながら、道行く人々にも声をかけて回る。しかし反応はどれもこれも芳しくなかった。この街にはすでにドイル以外の犬の気配は全くなかった。
「なかなか見つからないね」
 額を雨に打たれながらミトンを見上げるドイルは、瞳を潤ませている。
「大丈夫、まだ家はあるから」
 ミトンはこの街に残された最後の一軒のドアを叩く。この街では最も豪奢な作りの家で、他と比べれば幾分か期待できる。
 一度目のノックでは反応が返ってこなかったので、もう一度ドアを叩く。するとすぐにドアが開いて、使用人らしき服装の中年女性が顔を出した。
「はい、何かご用でしょうか?」
「この子の飼い主になって下さる方を探しているのですが」
 使用人の言葉に、ミトンはドイルを指して答えた。使用人とドイルの目が合うが、ドイルはすぐにミトンの後ろに隠れてしまった。
「……少々お待ち下さい」
 言葉を残してドアを閉める使用人。ドアの前では雨をしのげるので、休憩ついでに待てる。しかし、ドアは思いのほかすぐに開いた。
「ワンちゃんはどこです! 可愛いワンちゃんはっ!」
 ドアを開けたとたん声を張り上げた女性は、小綺麗な服に身を包んだ淑女だった。ミトンは表情を変えずにドイルを指さし、この子です、と言った。
「まぁまぁ可愛らしいワンちゃんですこと! あなたお名前は?」
「ドイルと言うようです」
 やたらと高い声を上げる女を怖がるドイルを代弁して、ミトンは彼の名を告げた。
「ドイルちゃんですって! 賢そうな名前だこと!」
 雨に打たれたドイルの頭を躊躇なく撫でる女。しかし、ドイルの表情は今にも逃げ出しそうだった。しかしミトンにはドイルの心境がわからない。
「この子を引き取って下さいますか?」
 ミトンの問いかけに、女はドイルを愛おしげに見つめたまま何度も首を縦に振る。
「ええ、ええ! こんなに聡明そうなワンちゃん初めて見るわ! ただでさえ近頃は犬がいなくなっているのに、私ったら幸運ね!」
 興奮する女は、服が汚れることも構わず濡れたドイルを抱きかかえた。弱々しい声で鳴くドイルだが、女は全く頓着しない。
「そうですか、ありがとうございます。では私は行かなくてはなりませんので」
「あら、褒美はいりませんの? こんなに可愛いワンちゃんを譲って下さったんですから、たんと励みますよ?」
「いえ結構です。人形の私には、お金も物も、あまり意味はありませんので」
「そう、本当にありがとう、大切にするわ!」
 ミトンは別れを告げて、雨の中に身を戻す。一歩、二歩と歩き始めた時――
「あいた! こら、なんてことするのドイルちゃん、あ、こら、お待ち!」
 耳をつんざくような女性の悲鳴が聞こえるが、ミトンは西に向けて足を進める。一つの街に長居しているわけにはいかないのだ。
「こら、戻ってらっしゃいドイルちゃん、ちょっと、ねえ!」
 女の声は遠ざかり、かわりに元気な足音がミトンに近づいてくる。ミトンが隣に目をやると、追いついてきたドイルが嬉しそうにしっぽを振りながら彼女を見上げていた。
「次の街で、探しましょうか」
 ミトンは実に自然にそう提案したが、しかしその約束が守られることはなかった。
 淑女の抱擁を拒んだ瞬間から、ドイルは死ぬまでミトンと共に行くことになったのだった。





第三章

小説