「ああ、やっとわたしの長年の夢が叶うのだよククール。あの時、くだかれた願いが!
 十余年もの間夢みていた。君をわたしの手元に置くこと。
 君は覚えていないだろうが、わたしは昔君と逢ったことがあるのだよ。当時の君は5つであったが、母親によく似た美しい子であった。
 わたしはどうしても君が欲しくなってね…。君の父上にお願いしたのだ。
 ククール少年をわたしの養子に欲しいと。
 そのときは断られてしまったがね。跡継ぎを養子に出してしまっては、家が成り立たない……まあ、それも当然の話だ」

 ―――何を、言っているのだろう。この男は。

「当時ドニ領主であった君の父上は、酒やギャンブルなど享楽に耽ってね。借金で身を立てる毎日であった。
 しかし、そのような暮らしが長く続くはずもない。3年……いや、2年後には、土地も屋敷も全てなくしてしまうような状況だったんだよ。
 そこでわたしは借金の肩代わりを申し出たのだ。奥方は反対したが、領主殿はとても喜んでくださった」

 ―――聞きたくない、聞きたくない。誰か奴の口をふさいでくれ。

「ところがどうだね! 領主殿も奥方も流行り病に倒れてしまったではないか。
 君のご両親の病状は悪化するばかり。そのときわたしは君の行く末を案じたのだ。もしも領主殿と奥方の身に何かあったら……ククール、君はひとりになってしまう! だからわたしは再度お願いしたのだ。
 ご子息の面倒を見させて欲しいと。決して悪いようにはしないと」

 ―――頭が割れそうなほど痛い。身体の感覚がない。俺は今ちゃんと立っていられるのか?

「しかし、君の母親は頑なにその申し出を撥ね付けた! 美しく聡明な女性と聞いていたが、先見の明もない愚かな女だったようだ。没落した家に残されたククール、君の運命を察することが出来なかったというのか!
 わたしは君を護るために食い下がったよ。どうにかして首を縦に振ってもらおうと。
 奥方亡き後は、君の父上に事情を説明して、何度も何度も」

 ―――ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな!

「領主殿なら分かってくれると信じていた……。彼はわたしの友情に感謝してくれるだろうとね。
 しかし、それは買い被りだったようだ。君の父親も、奥方となんら変わりのない……血も涙もない人間だった!
 息子の未来を案じるならば、何の不自由もなく育ててくれる者に預けるべきだったのに。君の両親は、親としての義務を放棄したも同然だ!」

 ―――頭が混乱してくる。彼の言うことが理解できない…

「最早鬼畜と成り下がった愚かな男は、それから間もなく死んだ。神はちゃんと見ていたのだね。
 君とわたしの運命の輪が回り始めた! わたしはやっと君を救うことができると喜びに震えた!
 それなのに……わたしがドニに到着したとき、君はもうその街に居なかった。君の居場所を街の者に聞いても首を横に振るばかり。
 後から聞いて分かったことだが、領主はいまわの際に伝えたそうだ。
 ”自分が死んだら、息子をマイエラ修道院に。それが自分たち夫婦の願いである”と」



 ククールは膝から崩れ落ちた。
 思考回路が上手く働かない。頭痛は酷くなる一方だった。
 意識が遠くなる。もう、何も考えられない。

「マイエラ修道院に君の腹違いの兄がいること……領主殿がその事実を知らぬはずがない。いや、たとえ知らなかったとしても、そんな場所に愛する息子を孤児として放り込むとは。なんと冷血な親だろうか。 ―――君に何一つ、持たせることもなく!」

 激昂して語るベルモンドの声が、やけに遠くから聞こえてきた。
 身体の感覚がない。顔を上げているのも辛い。
 ―――ああ、そういえば。
 ベッドに凭れるようにして倒れこんだククールの脳裏に、ある記憶が蘇る。
 昔、こうして母の死に目に立ち会ったこと。小さな自分に、母がか細い声で何かを語ったこと。
 残念ながら、その内容までは思い出せなかったが。

「ククール。君の辛い日々は終わったんだよ。もう、修道院に帰ることはない。
 これから、わたしとここで一緒に暮らすんだ。
 後のことは心配しなくていいよ。今夜君は、祈祷を終えてわたしの屋敷を馬車で出た。しかしその馬車はマイエラに着くことはなかった。途中で魔物に襲われたのかもしれないね…。気の毒なことだが、このご時勢ではよくある話だ。
 責任を感じたわたしは、きっと泣きながらマイエラに供養の品を届けることだろう」

 陶酔したように語るベルモンドの目は正気のものとは思えない。自分が絶体絶命の危機に瀕していることを、今更ながらククールは悟る。
 気を落ち着かせようとして息を吐けば、無意識にくちびるが震えた。この場から逃げ出そうにも身体は思うように動かず、思考を巡らせようとしても考えることを拒否してしまう。
 諦めにも似た感情。ここでこの男の玩具として生きる毎日を想像する。自分自身が情けなくて、惨めで、ククールは泣きたくなっていた。
 ……ベルモンドの次の台詞を聞くまでは。


「君も喜んでくれるね? 異母弟の身体を売るような異母兄、マルチェロから離れられるのだから」


 ―――全身に、稲妻が走る感覚。
 ククール脳内に、鋭い光の筋が通り抜ける。
 彼は覚醒した。その人間の名が、ククール自身に力を漲らせた。

 自分が死んだと聞かされたら、きっとマルチェロは喜ぶだろう。
 哀しいのか、悔しいのか、寂しいのか……よく分からない感情がククールを支配する。それを瞬時に打ち消した。
 彼の思い通りになってたまるか。なんとかしてここから逃げ出してやる。
 まだ立てる。頭だってまだまだ働いている。方法は絶対にあるはずだと。
 今日知った事実、それについて考え込むのも戸惑うのもとりあえず後にして、まずはここを脱出する方法を考えよう。
 ククールはもう迷わなかった。

 それにしても因果なものだ。絶望に陥りそうなとき、自分に力を与えるのが異母兄だとは。
 ククールが自嘲気味に笑う。
 ベルモントはそれを彼の諦めととったのか、満足そうな笑みを浮かべた。テーブルの上にワイングラスを置いて、酒をなみなみと注ぐ。それから優しい声音で語りかけた。

「空腹だろう? いま食事を用意させるからね。準備ができるまで、これを飲んで待っていなさい」

 軽やかな足取りで子爵は部屋を後にする。がちゃりと外側から鍵がかかる音がした。
 大層念入りなことだ。ククールは軽く舌打ちをすると、ベッドに手をついて立ち上がる。なんとか歩けそうだ。
 窓を開けて周囲を見渡せば、暗い空に星が輝いていた。ベランダから覗き込むように下を眺めると、ぞっとするほど遠い場所に地面がある。ここは4階、飛び降りたら命はないだろう。
 シーツを裂いて繋ぐにも、時間がかかりすぎる。隣の部屋のベランダに渡るにも、距離がありすぎて飛び移ることは不可能だった。
 あのベルモントという男、相当食えない男のようだ。絶対にここから自分を逃がすつもりはないらしい。
 瞑目し、天を仰いで……ククールが深い溜め息をついた。そのとき。

 握り締めたロザリオの違和感に、彼は気付いた。
 これは普通のロザリオではない。通常のものよりも厚みがある。
 よく調べてみると、中が空洞になっていて、何か隠せるようになっていた。
 爪を使って内部に隠された紙切れのようなものを取り出す。それを開いて、ククールは思わず息を呑んだ。

「偶然とは思えないね、これは……。しかし、大博打もいいとこだぜ」

 ククールは小さな声で呟き、苦笑してから、胸に手を当てて全身に魔法力を集中させ始めた。
 見覚えのある字で綴られた、ある文章。それをしっかりと読誦する。

 瞬間移動呪文、ルーラ。
 いままで使ったことは一度もない。成功するかどうかも知れたものではない。
 魔法の勉強を怠っていたククールは特に。

 本当に”彼”は酷い男だ。
 今回に限ってこのロザリオを預けた意味と、使えるかどうか分からない呪文と。
 もしも無事に帰れたら、胸倉を掴んで問い詰めてやりたい。

 柔らかな光が、ククールの身体を包む。
 次の瞬間、彼の身体は空高く飛んだ。








 夜の執務室。
 書類に目を通していたマルチェロは、万人には感じることが出来ないだろう”ある気配”を感じ取って立ち上がる。
 上司の脈絡のない行動に、驚いた騎士団員が声をかけた。
「マルチェロ団長、どちらに?」
 表情を変えずに、マルチェロはそれに答える。
「修道院の外に落し物があるようだ。邪魔なので片付けてくる」
「それならば、わたしが…」
「良い。お前は少し休憩していなさい」
 有無を言わせぬ物言いで申し出を断ると、警護の団員はおとなしくそれに従った。軽く手を挙げてから、マルチェロは大股で表に歩いていく。

 修道院の正門を開けて軽く周囲を見回してみれば、やはりそこにはある人物が倒れていた。
 右手でロザリオを、左手に紙切れを握っている。その表情には疲労が浮かんでいたが、命に別状はないようだ。
「堕天使め……帰ってきたか」
 ほどけた銀髪が川のように地を流れている。月明かりに照らされたその姿は、下卑た男の陵辱を受けながらも美しく静謐であった。
「こんな場所に、何の意味があるというのだ」
 呟いて、マルチェロはククールの左手に握られた紙を手にとった。同時にもうひとつ、手紙の束のようなものを自身の衣服の隠しから取り出す。その封筒にはベルモンドの家紋が記されていた。
 火炎呪文を唱えて、それらを燃やす。灰がパラパラと地面に零れた。

「ベルモンド、馬鹿な男め……天使の羽はそう簡単にもぐことはできぬ」

 嘲るように笑ってから、マルチェロはククールを抱き上げた。
 それから無言で来た道を戻っていく。

 飛ぶことを忘れた天使は、それでもこうして戻ってきた。
 反抗しながらも、不満を胸に秘めながらも。
 ……全く以って忌々しい。ここには彼の望むものなど何もないのに。
 早く何処かに飛んでいけばいい。


 微かに生まれた心のさざなみを殺して、マルチェロは昏い道を歩き続ける。










 ”ククール、わたし達夫婦はあなたに何一つ持たせなかった。
  だから、わたし達が死んでも、あなたはなにも失うことはないわ。
  絶望も、愛情も、希望も……あなたの居場所も、全てあなたの力で掴みなさい。
  ククール、あなたにはそれが出来るはず”



 ―――それは、ククールが思い出すことのない母の言葉。

 

 

 

 

 

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2007/06/29