タオルを肩にかけた望月が缶ジュース片手に居間に入ると、ひんやりとした夜の空気が風呂上りの火照った身体を容赦なく冷やして来る。その冷気に望月は小さく身体を震わせると共に夜風の進入口である窓から外を見ている早坂の背中に近付いた。
「りょ、良ちゃん…窓開けっ放しにするにはまだ早いんじゃないか? 確かに昼は暑い位だけど…」
「………え?」
  声をかけられた事で漸く自分が傍にいる事に気が付いたのか、少し驚いた様子で振り向いた早坂の顔を見た瞬間、望月は口を小さく開け、えっ…と呟いた。
「ど、どうしたんだよ!」
「え? どうしたって、何が?」
「…泣いてたのか?」
  長い睫毛や頬を涙で濡らしている早坂の目の前にしゃがみこみ、肩にかけていたタオルで丁寧に顔を拭くと早坂は困ったような笑顔を浮かべつつ俯いた。
「…あ、有難う。……心配させてゴメン、大丈夫だから…」
「何処が“大丈夫”だよ。また良ちゃんの無理が始まった」
「無理なんかしてないよ?」
「ったく…それを無理って言うんだよ。言ってるだろ? 胸の中に溜め込んでないでぶちまけろって。口に出すだけで結構スッキリするもんだぜ?」
「…………」
  言える訳無いよ。心の中で言いながら、早坂は小さく唇を噛み締めた。初日からホームシックになったなんて言ったら笑われるに決まってる。笑わなかったにしても、情けない奴だって思われるに決まってる 。
「……よし、分かった。言わねぇのならこっちで勝手に予想させて貰うぜ。……実家の事を思い出してた。どうだ?」
「!!」
「おっ、ビンゴかな? 俺の勘もたまには当たるんだな」
  思わぬ予想的中に思わず顔を上げる早坂の頭を撫でながら望月はニッと歯を見せて笑った。
「…なーんてな。何となく予想付いてたんだ。良ちゃんトコの家、仲良かったもんな。あー、良ちゃんって家の人に可愛がられてるんだなーって思う事も結構あったし。マジで羨ましかったんだぜ?  俺ん所は親に叩かれたり怒鳴られてばっかでさー。アハハーッ♪」
「しゅ、駿君……僕の事、おかしいとか思わない? 初日からこんな事になってるんだよ? テレビで猫を見ただけでチロルの事を思い出して、窓から外を見ただけで家族の事を思い出して……。景色を見てる内にこうしてる間に父さんや母さんが倒れたらどうしよう。今から慌てて駆けつけても間に合わないかも知れない。最期を看取れなかったらどうしようって…悪い事ばっかり考えて…」
「ハハッ、相変わらず良ちゃんって心配性だよな。でも、別におかしいとは思ってないぜ? それだけ家の人の事が大事って事なんだろ? 良い事じゃん。よっ、親思いの孝行息子!」
  涙ぐむ早坂の笑顔を取り戻そうとおどけてみせるが、早坂はゆっくりと首を横に振って俯いた。
「……僕は自分が情けないって思うよ。実は僕、駿君のお母さんに頼まれたんだ。君の事をよろしくねって。でも、僕、自分の事だけで精一杯で…駿君の事……見れなくて…。嫌だ…こんな自分…嫌だよぉ…!!」
  家族を慕う涙は自分を責める涙に変わり、小豆のようなそれがポロポロッと頬を伝う。ゴメンね。泣きじゃくりながら繰り返し謝罪の言葉を口にする早坂を望月は心配そうに見詰めていた。
 ――駿の事をよろしくね。早坂の脳裏に蘇るのは望月の母親との約束。進路も住む部屋も無事に決まり、望月の家族が自分の家に集まって夕食会を開いた時。望月の母親が部屋の隅から手招きをして自分を呼び、耳元で囁いた。あの子、本当に普段から考えなしに行動して余計なトラブルを引き起こす子なの。良麻ちゃんがしっかりしたブレーキ役をしてくれるから、本当に助かってるのよ?あんな悪ガキがそのまま大きくなったような子を良麻ちゃんに任せるのは申し訳ないんだけど…
 申し訳なさそうな表情を浮かべる彼女に自分は笑顔を見せてこう言った。駿君、本当は凄くしっかりしてるんですよ。いざと言う時、僕の為に一生懸命頑張ってくれるんです。…僕の方が彼に宜しくと言いたい位です――

「……良麻をお願いね、か」
  目の前にいる早坂にも聞こえない位に小さな声で呟きながら、望月もまた親友の母親との約束を思い出していた。早坂が自分の母親と約束を交わした別の日。そう、暇潰しにコンビニにでも行こうと外出した際に買い物帰りの彼の母親とバッタリ会ったのだ。短い世間話を交わした後、急に彼女は心配そうな表情を浮かべて(親友の心配性は母親に似たのだろう、と望月はその表情を思い出した時に確信した)自分の手を両手で握って来た。
 ――良麻をお願いね。普段は背伸びして難しい事ばかり言ってるけど、本当は寂しがりで一人でいるのは嫌がる子なの。私が甘やかしちゃったからでしょうね。駿君が良麻と一緒にいてくれて凄く感謝してるのよ。……あの子は寂しくなると過剰に甘えたがるから一緒に暮らす駿君に迷惑をかけると思うけど…
 息子と同じように自分を過小評価する母親に望月は首を大きく横に振って言った。でも俺、分かってますから。良ちゃんは優しくて芯が強いって。……そんな良ちゃんが好きだから今までずっと付き合って来たんですから――
「そんなに自分を責めるなって」
  早坂の母親との約束を思い出し、一度目を閉じて大きく深呼吸をした望月は改めて笑顔を浮かべて早坂の頬を手で包み込んだ。
「……そんな事言われたら、その“情けない奴”が好きになった俺はどうなるんだよ」
「…っ!駿君…」
思わぬ言葉に漸く顔を上げた早坂の赤くなった目元を濡らす涙を望月は指でそっと拭いながら静かに言った。
「ホームシックになるのはそれだけ家の人を愛してるから。俺の事を見れないからって自分を責めるのはそれだけ俺の事を気にかけたいから。…違うか?」
「…………」
「俺はそんな良ちゃんも好きだよ? 家の人や俺の事を大切に思ってるから泣いてくれてるんだろ? ありがとな、俺の為に泣いてくれて。…俺、良ちゃんのそう言う優しいトコすっげー好きだ」
  言っている内に相手に愛しさを感じたのか両腕を目一杯広げて早坂を抱き締めると、腕の中から戸惑いの声が聞こえた。
「や、優しいなんて………そんな…」
「…俺がお前の事優しいって思ってるから優しいんだよ。そう言う事にしとけ………それとも…」
少し力を緩めた腕の中に視線を向けながら望月は困ったように笑った。
「やっぱ、俺と二人きりじゃ不安かな。俺、余り頼りになる方じゃないし…」
「そ、そんな事無いよ!」
  腕の中の黒髪が激しく揺れ、早坂の腕が背中に回って来る。まだ涙で濡れた瞳が望月の顔をじっと見詰めた。
「駿君と一緒でホントに良かった…。もし、僕一人だけだったらもっと早くホームシックになってただろうし…何よりも君に会いたいって泣いてたと思う…」
「えっ………」
瞳を丸くした親友から視線を外した早坂は再度下を向いてボソボソと言った。
「……僕、凄く不安だった…夕方に君を傷付けちゃった時は、本気で一日で駄目になっちゃうのかなって思ってたんだ…」
「あぁ…だから、中々立ち直れなかったんだな。……馬鹿だなぁ、そんな早々と駄目にしてたまるかよ。俺、お前と一緒になりたいから必死で勉強したんだぜ? お前が好きだから一緒になりたいって思ったんだぜ?」
「駿君…」
  余りにも率直な言葉に暫し固まっていた顔も見る見る内に綻び、頬を赤く染めた笑顔に変わる。照れ臭いのか早坂は暫く望月の服を掴んで胸元に顔を押し付けていたが、望月の腕が自分を包み込む事で感じる温もりに胸が一瞬ドキリと跳ねた。……どうしよう。早坂は唇を動かさずに口の中で呟いた。…僕、この人が本気で好きだ。気が付けば顔を横に向け、頬を胸の上にぽすっと乗せる。耳に聞こえる望月の鼓動に良ちゃん、と自分を呼ぶ声が重なった。
「…落ち着いたか? まだ何か不安とかあったら今の内に言っとけよ?」
「……うん…今は大丈夫、有難う。…ねぇ、駿君。もう少しだけこうしてて良いかな。駿君の腕の中ね、凄く落ち着くんだ…」
  あったかい…とうっとりした様子で自分に身を預けている早坂を見ている内に顔が瞬く間に上気するのを感じる。…ヤベェ。ついさっき早坂がした事と同じように望月もまた口の中で呟いた。やっぱりコイツ可愛い。マジで。薄く瞼を閉じているのか余計に映えて見える長い睫毛にコッソリと生唾を飲み込み、早坂が頬を寄せている鼓動が速くなりそうな胸には落ち着け落ち着けと必死に言い聞かせるが、抱き締めている腕がゆっくりと早坂の肩へと移動して掴むと同時に理性が何処かへと飛んでいくのを感じた。
「……りょ、良ちゃん…」
「何?」
「…まだ…寂しい…?」
「えっ?」
  奇妙な質問に思わず怪訝そうな表情になった顔を上げつつも、自分の事を心配してくれてるんだと思うと嬉しくなって笑顔が零れる。首を横に振りながら早坂は何処か顔が赤い相手の首の後ろに腕を絡めた。
「正直に言うと、まだ少し寂しいけど……平気だよ。駿君がいるから」
「そ、そっか…ちょっと寂しいんだな。それなら、さ。ちょっとの間忘れさせてやるよ」
「駿君? …わあっ!!」
  何処か様子がおかしい望月に首を傾げた瞬間に肩を掴まれ、床に組み敷かれる。自分を押さえ付けている親友は笑顔を見せているが何処か切羽詰った様子に見えた。
「さ、さ、寂しい時は人肌が一番なんだぜ!? だ、だから、その、なっ?」
  表情に相応しい上ずった声で何かを求めている望月に早坂は細かい瞬きを繰り返していたが、その趣旨を漸く感じ取った瞬間、顔がかあっと熱くなった。あ、な、成る程……ね。お互いの顔の赤色を比べ合うように 二人は微動だにせずに見詰め合っていたが、それからどれ位経っただろう下にいる方が微かに動いた。
「…う、うん……良い…よ…」
  戸惑いながらも小さく頷いた途端に望月の身体が覆い被さり、手が服を掴んで来る。これからされるであろう行為に早坂の胸が期待と不安で高鳴り始めたが、冷たい風がふわりと黒髪を揺らした瞬間にハッと我に返り慌てて身を起こした。
「あ、ま、待って駿君……窓、閉めないと…見られちゃうよ……こ、この部屋二階だから、普通の家からも見えちゃうかも知れないし」
「え? ……あっ」
  視線を横に向けると共に頭の上が噴火した望月を横目で見ながら、彼と同じくらいに顔を真っ赤にした早坂は開きっ放しだった窓を閉め、カーテンも丁寧に閉めた。
「…い、今までのも…全部……見られちまった、かな?」
「ど、どうだろう……もう夜も遅いし、他の家もカーテン閉めてるみたいだから大丈夫とは思うけど…」
  それでもチラチラと不安そうにカーテンを見る早坂の肩を望月が急に抱き寄せて来る。赤い頬と赤い頬が触れ合い、そのまま唇同士が重なり合った。
「ま、まぁ、カーテン閉めたから大丈夫だろ。……何なら…場所、移動するか?」
「…う、うん」
「了解。じゃ、レッツゴー!」
  照れを隠しているのか必死におどけている望月が勢い任せに早坂の身体を抱きかかえる。突然の事に目を白黒させながらも無意識の内に腕を首に絡めてくる早坂の額に望月は微笑みながら唇を当てた。